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ジンクスみたいなものはどの業界にもあり、われわれの狭い世界にももちろんある。ただしそれらのジンクスを口にすることはない。口にしなくなった。「ジンクスを口にしたとたんにその出来事が起こる」というのがひとつのジンクスだからだ。メタ・ジンクス。ジンクスのマトリョーシカ。
たとえば、「最近あの検査、あんまり出てないな」と口に出した日の午後に、まさにその検査のオーダーが入る、みたいな話。
野球でいうところの「打球は変わったところに飛ぶ」というのと似ている。
(※余談だが、最初この格言というか慣用句を聞いたとき、私は意味がわからなかった。省略が多すぎると思う。野球を知らない人向けに解説すると、「監督が守備のメンバーを入れ替えると、次のバッターの打った球がまさに今変わったばかりの人が守っているところに向かって飛んでいく」という意味である。ここまで略してしまうともはや「打球とはストレンジな場所に飛ぶものである」という意味になっている)。
確率を考えると偶然では済まされない! ジンクスってのは怖ェなァー!
な~んて、若いころはたまに、口にしないまでも考えていた。でも、結局こういうのは単なる偶然なのだ。毎日はすべて、あらゆることが偶然の積み重ねで起こっていて、それらを「あっ、これは偶然じゃないな」なんて、私たちのほうで勝手にストーリーに結びつけてしまって、そうやってうまく物語に乗っかったものだけを長く覚えている。だから私たちが覚えているものごとはどれもこれも必然であったかのように感じてしまう。
そして私たちは、次第にジンクスを気にしなくなる。偶然に理由をつけても詮無きことだから。
まあ、「いいことが起こるジンクス」なら、だまされても別にいいかなとは思う。「このアイスを食った翌日にすごくいいことが起こったから、また食べるんだ! おいしい!」なんてのは、アイスをおいしく食えているのだからそれでいいじゃないかと思う。ジンクスを理由にどんどんうまいものを食おう。それはいいことじゃないか。
一方で、医療の世界で起こることのいくつかは、患者にとって縁起でもないことだ。そういうのは、ジンクスだなんだと言って気軽に口に出したくない。ジンクス(というか、まさに、「縁起」)を真に受けて、患者やその家族、職場のスタッフにとってよくないことが、「起こるかな、起こらないかな」なんて考えている姿は、なんというか、不健全だろう。
ジンクスとかゲンとか、思えばあんまり気にしなくなったな。「縁起を担ぐ習慣」が今の私に何か残っているだろうか。あんまりない。講演のときにネクタイをどういう色にするとうまくいく、みたいなのも、昔はわりと考えていたのだけれど、最近はすっかり忘れてしまっている。お守りやおまじないの類も特に気にしていない。
サイコロを何万回も振ると出目の確率がきれいに六分の一に近づいていく、みたいな話で、試行回数が増えるにつれて「偶然」が「偶然らしく」思えるようになってくるから、中年もなかばをすぎると、そういうものをだんだん気にしなくなるのかもしれない。
亡くなった祖母が存命だったころ、毎日必ず寝る前に、私たち兄弟は祖母と握手をして、「お・や・す・み・な・さ・い、あ・し・た・も・お・げ・ん・き・で」とリズムよく唱えてから寝た。そんな習慣があった。ふと思い出した。あれは……ゲン担ぎとかおまじないというようなものだとは、少なくとも当時の私たちは、思っていなかった。そんなに文脈が強いものではなかった。ただの日常だと思っていた。だから続いたのだろう。そして私はそのことを、祖母が亡くなってからもずっと覚えている。ほかのどんなジンクスもまじないも祈りも忘れてしまったが、あの挨拶だけはなぜか覚えている。ふしぎなものである。