泳がせられている

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診療の場面では、自分より若い同業者とも、年を取った同業者とも両方出会う。

年を取ったほうにはバラエティがある。ある種、進化系統樹の先端部を見ているようなもので、人生のいろいろな場面で衝突してきたさまざまな選択圧によって、何度も分岐して、てんでバラバラの方向に向かっており、人によって異なる成熟の仕方である。おもしろいね。人生。

一方、若い人にもいろんな若い人がいる。こちらはまだ、ベテランに比べて場面を乗り越えた数は多くないはずなのだけれど、それにしても、生まれつきこうでしたというだけで説明が付かなさそうな、とにかく、たくさんのアドレッセンスのありかたがある。

何を考えているのか、気持ちがぜんぜん出てこないのでよくわからないタイプ。

こちらがひとつ何か言うとそれに必ず「ひとつ以上」で応答するタイプ。

いろいろあってどぎまぎするが、最近はそういう若い方々を、私はどこか、「泳がせている」ようなふるまいをしがちである。刑事が犯人を泳がせている、というニュアンスをわずかにふくむけれど、どちらかというと本来の字義、「お魚を泳がせる」とか「子どもを泳がせる」の意味のほうが近いかもしれない。

縛れない。導けない。自分ではない人間に対するに、どのような見本であるべきなのかわからない。だからもう、とにかく、「泳いでくれえ! じゃんっじゃん、泳いでくれえ!」とやって、それぞれの泳法で好き勝手やっていただきながら、ときおり私が手を貸せそうなところでだけコミットする、といったやりかたになっている。

で、たぶん、同年代の多くの人が、わりとそういうやり方になっているのが現代だと思う。背中を見せて育てるわけでもない。手取り足取りやるでもない。泳がせ、走らせ、ときおりコメントする、くらいの。

これで本当に育つのかなあと思うけれど、みんなちゃんと育っていくので、人間の成長に関する本能はわりとすごいなあと感じる。

そして、今になって思うのだけれど、私もおそらくずいぶんと、泳がされてきたのだなあと。

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