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学会で発表する予定のスライドを作りながら電話での問い合わせに応じて外注検査の伝票を書き、生検の標本に必要となる追加の染色をオーダーしつつ今度の交見会(地方会)の事務作業をすすめる。マウスの電池の残量が不安定になっていて、ときどきポインタが動かなくなる。顕微鏡のステージを止めるビスが緩んでいてプレパラートが少し震える。手指の爪が伸びている。がっと没入しようと思ってもこうして環境に気が散ってなかなか進んでいかない。電池を交換。ビスを締める。爪を切る。ついでに耳かきをしておく。通りがかったスタッフが「なにのんびり耳かきなんかしてんだよ仕事中に」という微笑みを浮かべる。
外はだいぶ寒くなってきたので職場ではベストを着ているのだが、始業して数十分も経つともう汗ばんでくる。冬のほうが痩せる。教え子からスタバでバイトをはじめましたという連絡がくる。今度来てくださいという。でも職場に慣れるまではこないでくださいという。慣れたらおいしいコーヒーを入れますからという。単なるコーヒーでもクリームもりもりにしますからという。コレステロールが高いのでやめてくれと答える。冬に太ることもできるかもしれない。
仕事に慣れるまでの日々を思い出す。私が仕事に慣れたと思ったのはいつだったろう。昨年くらいだったかもしれない。学部を卒業して大学院を出て、病理医になって16年目となっていた昨年、あ、今、俺、自在に動けているなと感じた。慣れたなあと思ったのはそれがはじめだった。そこからも私は、しょっちゅう、困難な診断と出会い、やったことのない染色をオーダーし、新しい文献を読み、はじめての学会で発表したり、つまりちょろちょろと新しいことをやっているし、そこに大変さもきちんとあるので、慣れたなんていうとおこがましいのだけれど、でも、20代、30代のときの、「自分の脚が向いている方向がよいのかわるいのかもまったくわからない猛烈な不安」に比べれば、私はだいぶこの世界に慣れたと言っていい。言ってもいいが、慣れたはずなのにこんなに難しいのかという、「こんなはずじゃなかった」という思いもあるので、小声で言ったほうがいいだろう。