『がんユニ』両側乳がん経験者・阿久津さんとのお話。

※毎週火曜日、書籍『がんユニバーシティ』で行ったインタビューの、「編集中の原稿」を全文公開します。書籍版ではここから大幅に編集をし、各先生方からの寄稿をはじめとするたくさんの文章をコラム的に散りばめて、一冊の本にまとめます。このブログでは、インタビュアー(市原)が興奮し続けた「生の雰囲気」、編集前の原稿だけが持つ猛烈な(ちょっと読みづらい?笑)エネルギーを味わっていただきたいと思います。

科目名:       両側乳がんの経験者・当事者として私が思うこと

講師:           阿久津友紀先生(HTB 北海道テレビ放送)

テーマ:       がん患者の実際

学期:           2年後期

Dialogue

<最短距離のはずが>

私、メディア業界にずっと入りたくて、そのための一番短距離のルートは何だろうか、というので人生を全部選んできたんですよ。「誰かに何かを伝える」っていう気持ちがベースにありました。。小学校でも、運動もやっていたけれど、放送部だったし。中学もでした。

大学に入ろうってなったとき、マスコミ業界に入りやすい大学ってどこだろうって思ったんです。

そんなに頭良くなかったんですけど、体育と家庭科ができたんですよ。これって大きいんです。国語、算数、理科、社会って、頭のいい子は本当にずばぬけてできるんで、これは敵わないなと思って、家庭科と体育だけは5を取ろうみたいな目標を立てた。すると、学校で一番成績が良くなったんですよ。それで早稲田大学の推薦がもらえた。

だから私、ちょっと楽させてもらってるのです。ずるしたかったわけじゃないんだけど、自信がないから計算して短距離でいきたかった。そうしてめでたく大学に入りました。

でも、大学入った瞬間に、とんでもない崖が私を待ってたんです。父ががんでした、っていう。

18歳、大学1年生。妹は16歳、高校2年生。

――ああ……。

実家は千葉の市川市なんですけど、父親の会社が九段下駅にあって、私は早稲田大学だったから早稲田の駅まで、東西線1本でこれからお父さんと一緒に学校に通えるな、と思ってました。よかった、4年間ちゃんと勉強して、頑張って放送局に入るんだ、なんて思っていた。受験の年の1月ぐらいから父親が、なんか具合が悪いな、みたいな感じだったんです。父親は忙しい人で、家にいないのが当たり前の人だったから、別に普通どおりに働いてるんだろうと思ってたんだけど、家に帰ってきたらすぐ寝ちゃうし、どうしたんだろうと。

3月ぐらいに、「ちょっと病院に行ってくるわ」って言って病院に行ったんですよ。すると、「精密検査だって言われた」って。見る見る痩せていくわけ。

母は、「お父さんには言わないでね」って。三十数年前です。本人に病名を言うような時代じゃなかったですよね。「お父さん、がんなんだよ」と。妹はまだ知らない。私と母だけが知っていたんです。まじか、と。

父はスキルス胃がんだったんです。大学生だし、調べれば分かる。スキルス胃がんか。まずいな、これは。お父さんどうするの? どうなるの?っていうか、そもそも私、大学行っていいの?

私は大学に通い始めましたが、普通に通える状態ではなかったですね。父はその年の8月末に亡くなりました。大学に入ってから、たった4か月しか父は生きられなかった。一緒に会社・学校に通えたのは最初の2,3回でした。

その後は、もう、病院と家の往復です。父親が家に帰りたいって言うから帰す、そしてまた病院に戻すっていうのを繰り返しました。

期せずして、がん患者さんが治療を受ける、抗がん剤はこうなる、みたいな基礎知識を凝縮して学ぶことになってしまいました。

母はもう、うろたえてるんですよ。専業主婦でしたし。長くて3か月だって言われてしまって、子ども2人抱えて私はどうすればいいんだろうと。そこを支えられるのはもう私しかいない、歯を食いしばるしかないと思っていくなかで、うまく例えづらいのですが別人格が出来上がっていきました。

――別人格ですか。

母が倒れそうになったときに私が看病を代わる、というのを、父親が亡くなるまで4か月間ぐらい繰り返していました。そのときの壮絶さが多分、今の私をつくってる、確実に。

もうお金もない。この後、大学も行けないかもしれない。父親も亡くなる。母も支えなきゃ、妹もだ、どうしよう、でもどうしようもない、みたいな。

私が強く生きていく、私が道を切り開いて、私が何かを整えていかないといけない。世の中の誰かに頼るってことは、まだそのときは分からなかったですね……。自分で探して何とかするしかないっていうふうに思ってました。

<学校どうされますか?>

――小、中、高と、自分の目指す形に最短距離で、っていうお話からスタートしたわけですが。そこから一気に。

そう。ガラガラ…って、きましたよね。もう道がなくなっちゃうんですよ。最短だったはずなのに。学校辞めなきゃいけないのかなって思ったんです。

8月30日に父親が亡くなって、9月1日に学校の学生課に行くじゃないですか。「父が亡くなりました。だから忌引を取ります」。そうしたら、「お父さんが亡くなったんですか。お母さまは?」って言われたので、「専業主婦なんです」って答えたら、「学校どうされますか?」って言われた。

――「学校どうされますか?」って言われるんですか。

言われますよ。母にも言えないよね。母はもう倒れちゃってますからね。

気丈には振る舞ってはいたけど、相当ですよ。妹の高校だって卒業させなきゃいけないから。

そうしたら学生課の人が、「9月15日締め切りの、返却の必要がない、給付金型の奨学金があります」って。ラッキーだったんです。しかも、二つあった。学校のものと、あともう一つ、マルイさんの奨学金。「これも絶対応募したほうがいいですよ」って言われた。「今この状態だったら叶う可能性は高いから。急いで応募書類を書いて」って。「分かりました」って、急いで1週間で応募書類を書いて出したら、面接はあったもののクリアして給付金型を二つともいただけた。

それから4年間、学費払ってないんです。それがないと、多分卒業できてなかった。助けてくれた教務課の方に感謝です。あと、マルイさんの青井奨学会の、初代の会長さんには頭が上がらない。それがあったおかげで学費を払う必要がなくなったし、生活費みたいな形で入る給付型のももらえた。加えて、日本育英会の奨学金を付けたら、暮らせますよね。日々が暮らせていれば、学校行くにはもう大丈夫だなと。

私の学費が大丈夫になったので、じゃあ妹も行けるね、って。妹は建築士になる夢があって、高校を卒業した後は千葉工業大学っていう所の建築学科に入って、ちゃんと2級建築士の資格を取って、今も仕事をしています。

――ご立派ですね。

本当に、妹は立派だなと思います。でも、父親は無念だったろうなって思います。父親は自分の病が何なのかよく分かんないまま亡くなっているわけだから、その後の娘の心配なんかもできたわけじゃないんだと思うんだけど。

誰か助けてくれる人を探して、助けてくれる人に乗っかって、ちゃんと自分で道をチョイスできれば次の道はあるんだ、世の中そんなに見捨てたもんじゃないかもしれない、って18歳のときに思いました。

そこからスタートしてるから、大抵のことには驚かないのよ(笑)。生きてさえいれば何とかなるって思っていて。

<どうやっても自分が投影される>

それで無事大学を卒業して、テレビ局に入りました。社会にどーんとぶつかった瞬間に、次の山が来るわけですよ。

まだ男女雇用機会均等法が成立して10年たってない時期です。男性と女性の就職の数が全く違う状態でした。メディア業界も、やっぱり差が出てしまうみたいなところで、まずいかなって思ったんですけれど、今の会社に拾ってもらいました。

――無事、「伝える仕事」に就かれたわけですね。会社の側にもやりたい気持ちが伝わったんでしょうか。

スポーツのドキュメンタリーを撮るとか、誰か人を追い掛けるようなことをするとか、あとは困っている人のために何かを伝える仕事がしたい、と。父の経験も踏まえて、だんだんセグメントされてきて、就職活動のときはそういう話をずっとしてたと思います。

――セグメントされてきて。

どんどん絞られてきたっていうか、困ってる人のために何かをしたいと思いました。ドキュメンタリーや取材を通して誰かにモノを伝える仕事がしたいっていう話をずっと繰り返してました。

ドキュメンタリーって、作った瞬間に、人を映しててもどうやっても自分が映るんです。

ニュースだと,普通に原稿を読んで何々の事故が起こりましたとかってなるから、アレンジのしようがないんですけど、ドキュメンタリーにはアレンジを利かせることができる。どのカットを切り取るか、どの長さでどう切り取るかによって、人に与える印象って違うじゃないですか。そのカットは自分で選ぶわけなんです。その瞬間に自分が投影されてるんじゃないかなって思っています。私の場合、自分自身のドキュメンタリーも撮っていますが、自分を取材したとしても多分そういう感覚はあるのかなと思います。。

――面白いですね。

<亡くなる前に何がしたいか>

父のことを経験した私だからこそ描ける何かがあるんだろうなと思いながら取材をしています。自分も遺族になった経験があって、人が亡くなるっていうことがどういうことかっていうのがわかる。

人って亡くなる超ぎりぎりまで話ができるんです。がんに関して言うとですけれど。もちろんいろんな具合は悪いわけだけど、痛みなどを取っていけば、ぎりぎりまでやりたいことをやったほうがいいんじゃないかって。

それこそ、父のことがあってから、がん患者さんって亡くなる前に何がしたいんだろうっていうのを、考えるようになりました。

痛み止めでモルヒネ打ちますよね。意識がもうろうとする。そうすると父が、目の前にいるのが母なのか私なのかが分からなくなるんです。私のことを母だと思って昔の思い出とかを話し始めるわけですよ。私、知るわけないじゃないですか、そんな話を。母と父のなれ初めもあんまり聞かないし。

――聞いたこともないような話を。

だけど、聞いていると、母がどうやって父と出会って、父とどうなって、自分が生まれてきたのか、みたいな話になるわけです。

私は、父の思い出、子どもの頃からの思い出がもちろんあるんだけど、幼過ぎてそれって忘れちゃうじゃないですか。

でも、父は、母に話しているつもりでいるので、私が生まれてどうだったかとか、そういう話を始めるんですよね。

なるほど、やっぱり人にはちゃんと人生があって、その人生が最後、いい人生だったって思えるかどうかってことが大事で……この話をすると泣けてきちゃうんだけど。

自分がいい人生だったと思って幕を閉じられるかどうかっていうことが、すごく大事なんだなと思ったんです。

――亡くなる前に何がしたいか、いい人生だったと思って幕を閉じられるか。

父との会話の中で、山を登りたかったなとか、家に帰りたかったな、みたいな話が出てきました。父は、自分が胃がんではなくて胃潰瘍だと思っていたので、なんで自分は家に帰れないんだと思っていたでしょうね。

自分の意思や自分のしたいことをちゃんと叶えてあげるっていうことが、残された人の責任としてあるんだろうなって私は思っています。残される側がこうしてほしいじゃなくて、亡くなるその人がどうありたいのかっていうのが大事なんだろうなって、ずっと思ってます。父のときはそれができなかった。

<温泉に決まってるじゃん>

報道記者としてダーってやってたら、今度は母が乳がんになったんです。お、来たな、みたいな感じ。私またこの修羅場を抜けるんだと思った。

 忘れもしない。私は札幌に暮らしていて、母は千葉の実家に暮らしているんですけど、母は元気で、北海道と東京を行ったり来たりとかしていました。あるとき、一緒に温泉に行ったときに母が、「友紀ちゃん、ちょっと胸触ってみて」って始まるわけですよ。触った瞬間、その時点で、「ドキュメンタリー番組を作ってる」。ああ、乳がんだ、と。

――そんな状態に。

それまで取材で、乳がんの人たちとたくさん話をしてきて、21歳の乳がんの女の子を看取ったりもして、乳がんって簡単じゃないし、こうなんだよねみたいなことが分かってて、ああ、来たかと。

触った瞬間、「お母さん、すいません、可及的速やかに病院に行ってください」。病院に行ったら、案の定です。母はうろたえるわけですよ。それはそうだよね。「じゃあ、母はどうしたい?」と。私はもうそれしか聞けなかった。

自分がどうしたいじゃなくて、母がどうしたいか。

父のときの経験があるから、これは「母がどうしたいのか」しかないなと思った。そうしたら「生きられるんだったら生きたい。でも無理やり生きたくはない」って言うわけですよ。

――難しい答えですねえ。

そう。めちゃくちゃ難しい。難しいんだけど母はそう言う。

なぜならば、娘2人にこれ以上迷惑を掛けたくないからっていう思いが強いからですね。間違いなく。そうだよねって思って、「分かりました」って言った。ひとまず手術となると、千葉で手術ができる病院って、がん研とか、うちからちょっと離れた所に行くしかない。たった1人で入院させるとか、介添えもなく入院させるのって大変なことだから、これは札幌に呼ぶしかないと思って、母を札幌に呼んだんです。

――冷静な判断ですね。それまでのご経験もあったのかと思いますが。

母を札幌の病院に入院させて、手術も受けさせました。私は日々、会社に普通に通って、ほとんど毎回、面会時間のぎりぎりに滑り込むか、既にアウトの時間に滑り込むんですけど、滑り込むと母が輪の中心でめっちゃげらげら笑ってるんですよ。「なんだこの人」って思って。

――(笑)。

「こっちは心配して来てるんだぞ」と。すると、「みんなとお友達になっちゃって」。「うわっ、この親、ただじゃ転ばないな、強過ぎる」と思った。でもそれで安心して、ああ、この人は自分で選択して生きて、今この人生を楽しんでるんだなと思いました。

患者さんがそういう気持ちになれるって、すごく大事だなって思っています。しかも、そこで笑ってるおかげで、周りの人たちもみんな笑ってるわけ。患者だからといって人生を諦めないというか、その場では笑っていいよね、みたいな、これでもう終わりっていう感覚じゃないというか。

――がん患者になってからの先にも、すごく膨らんだ人生があるわけですね。

何してもいいんだっていうのをそこで学んだんです。退院する日に、「お母さんどこに行きたいの?」って聞いたら、「温泉に決まってるじゃん」って言うわけですよ。

「ちょっと待って。あなた左胸を切除されてますよ。それ見られたら嫌じゃないんですか」って聞く。そうしたら、「そんなの隠せば同じでしょう」って言うわけですよ。

<標準治療の観点からは>

母には、父に何もしてあげられなかった思いがあるんでしょうね。父は、自分ががんであることは知らず、どういうふうにするかも選べなかった。だけど自分はまだ生きてて、ご飯も食べられて、選べる。だったら自分がやりたいことをやれるところまでやって生きたいっていうふうに思うんだそうです。本当にそうだな、すごいなと。じゃあもうお母さんの好きなようにしましょう、みたいな。

 私も、快気祝いとかを仕込むわけじゃないですか。すると、大喜びでどんどん元気になっていく。ただ……。

母の病期はちょっと進んでて、ステージⅡBくらいだったんですよ。本来、抗がん剤が必要だった。当時、20年前は、HER2が出たばかりぐらいの頃で、リュープリンも全然ない。閉経後で、ノルバデックスしかなくて、飲む抗がん剤を足すか足さないかみたいな話で。もしくは注射の抗がん剤を3クール。でも、もう母はやりたくないわけです。

母は一度、手術をして“治った状態”にはなりました。リンパも取っているので、これ以上大きな治療は必要ない。ただ、残っていたのは「薬の選択」です。つまり、再発予防のための治療をどうするかという段階でした。

でも母は、「もし再発しても後悔はない。もう60歳を過ぎたし、これからの人生で後悔はしないから、抗がん剤はやらない」って言ったんです。

私は、標準治療の観点からいえば、抗がん剤をやったほうがいいことは分かってたけど、母自身がそう決めたので、あえてあまり言わなかった。65歳を超えていれば、もう何を選んでも本人の自由って言えるのかなと。だから母には「じゃあ抗がん剤はなしで、ホルモン治療だけにしよう」って伝えました。途中でホルモン治療薬を変えたりしながらも、そのまま続けて――今も生きています。85歳。

母にとっては「自分で治療を選んだ」という実感があるんです。

これまで、“自分で選んだ人”“選べなかった人”という姿をたくさん見てきて、母は、「次は私の番ね」って感じていたんでしょう。

――お父さんのご病気から、お母さんのがんが見つかるまで、どれくらいですか。

15年くらいかな。

――そこからご自身の病気までは。

12年。

<困りごとの芯にたどりつく>

――ご家族のご病気を経験され、ドキュメンタリーを作るお仕事でがん患者さんの体験をたくさん取材されているうちに、ご自身もがんになられた。稀有なお立場かなとは思います。

ドキュメンタリーを作るとき、世の中の人たちが何に困っていて、この人はいったい何がつらいと思っているのかっていう部分は、確かめて解決の糸口を見つけなきゃいけないなと思っていて。。

患者さんってものすごい困り事がたくさんあるんだけど、自分が何に困ってるのかが分からない。なぜならば、がんに対する知識が足りないから。

何にも知らない人がいきなり、がんですって言われたらそりゃあびっくりもするし、驚きもするし、太刀打ちもできなくなるし、落ち込むでしょう。

そういうときに、自分がこういう経験をして、こういうことがあって苦労したとか、弱い部分がこうだったっていうのがわかっていると、自分が何に困っているのかが分からないっていう人の解像度が上がるんです。

自分が病になる前も、人が何に困っているのかを見極めようと心掛けてはいたけど、病になった後のほうが、早く芯にたどり着く。

患者さんの困りごとに関する解像度を上げるために、質問をしていく。すると、「ああ、自分はこれに困っていたのだ」とか、「ここを先生に聞けばこれが解決するんだ」みたいなことが分かってきて、患者さんの顔色が変わり、進むべき道が変わるっていうのを、ちゃんと話をできた人に対してはすごく感じます。

そういうことがあると、自分はちょっとでも役に立ったのかなって思います。

――ご自身ががんになられたときは、自分に対してそれをなさったんですか。

できてなくてですね・・・(笑)。、がん患者さんに頼りに行きましたね。

――なるほど。

長く北海道で取材しているので、病院に何人も知り合いがいるんですが、自分もがんになりましたって言ったら、ある医療従事者で、ご自身も乳がんになったっていう方がいらっしゃって、その方がすぐ声を掛けてきてくれたんです。「困ってるでしょ」って。本当にこの方に私は助けられました。

開口一番、彼女に言われたのは、「がんに診断されたからといって明日から変わるわけではない」と。「生きているんだ」と。「やりたいことはやれ」ということだけを会うたびに言うわけです。

――がん患者の抱える、困りごとの解像度が高い方がいらっしゃった。

残念ながら彼女はもう亡くなっちゃったのですけれど。

当時はアベマシクリブが出たぐらいの、ちょうど転移再発の人だけに適用されるぐらいの時期でした。「私、これが効けば絶対に元に戻れるから。だから頑張る」っておっしゃったけど、そのときにはもう、なんとかできるような進行状態ではなかったんですよね。

 その方は、新しい薬を保険適用になってすぐから飲み始めたんだけど、再発の治療はそのもっと前、6か月ぐらい前からやっていました。もし、新しい薬を最初から受けられていればもっと生きられたのかもしれない、みたいなことも考えてしまいました。記者目線で、ドラッグラグのこととか。

自分でちゃんと治療を選択して、自分で進みたい道をちゃんと選んで生き切ることの大切さとか、がんと共存しながらも生き切るみたいなことを考えていかないといけないんだなっていうことを、そういう方々から、いろいろ教わりましたね。

――なんか今、複数の問題点が一気に開いたような気がします。

大丈夫、これ? まとまるの?(笑)

<ギフトじゃないから>

がんと診断された後、生きられる期間って確実に延びてるじゃないですか。確実に延びてるからこそ、がんと共に生きる期間、どれだけ自分がハッピーであるか、安定しているかっていうことをすごく考えなきゃいけない。

――安定っていう言葉、分かります。そこは安定なんですね。

安定です。

――ただ、それまでの自分が安定してる場所とは、フロアが違うじゃないですか。

全然違いますね。

――でも安定はできるんですよね。

そりゃあ、自分が乳がんになる前の体力にも、自分の能力にも戻れないですよ。絶対、戻れない。でも戻れないんだって悲しんでると何も進まないんだけど、案外これだったらできるかもって思えるっていうところのバランスを変えるだけで、生きていきやすくなるかなって私は思っているんです。それをどうやって伝えるのかっていうのも難しいんですけど。

――伝えたほうがいいですよね。

そう。患者さんには、「ちょっとの幸せを、幸せと感じるかどうかが大きいんですよ」って。「ちょっとの笑いでも笑っておいたほうがいいと思います」って言います。

――なるほど。線の引き方、のような。

もちろん、薬を飲んでるときのグレープフルーツとかは駄目だけど、食べたいものを食べたほうがいいと思っています。

父が食べたいものを食べれなかったわけですよ。だけど、かき氷を食べたら、にっこり笑って「おいしいね」って言う。多分それが大事なことで。

本当はそれって悲しいことですよ。患者さんからすると、自分がそれにしか喜べなくなってるっていうことを、受け入れること自体すごく苦しいことなんですよ。自分は高いレベルで今まで喜んでいたのに、こんなちっちゃなレベルで喜ぶんだっていうことに気が付いちゃったときは、結構落ち込む。

――病気になってないときのほうが楽しみが華やかだった、みたいな苦しみって、どうしようもない気もします。

どうしようもない。けど、どうしようもないっていうか……何だろうな。

がんになって人生が開けて、キャンサーギフトって言う人がいるんだけど、嫌いなの、私。本当に嫌いなの。あんまり強くも言えないんですけど、本当に耐えられないのよ。ギフトなはずないじゃないですか。ならないに越したことないじゃないですか。

――言葉の選び方としてそれは違うでしょっていう。

そう。

<いったんは思ってる>

――がんになって落ち込んでいる人に、どう語り掛けていらっしゃいますか。

うーん。「どうしようもない」は、多分みんないったんは思ってるよ、っていうことですかね。

――いったん。なるほど。

そう。みんな、いったん、一旦、思ってるんですよ。「あなたはそう思ってるけど、それってあなただけではなくて、私も含めて多分みんなが、いったん思ってるんだよ」って。何にもないまま復活なんか絶対しないから。

――復活はするんですね。

復活はすると思う。程度によるけれど。程度によるけど復活はすると思いたい、が近いかもしれないけど。。

だって、泣いてたって涙はやむじゃないですか。ずっと泣いていられないし、泣くほうが体力要るから。私、泣き続けられている人は本当すごいなと思う。子どもとかもそうだけど、体力あるなと思うわけです。そのうちもう涙も出なくなるぐらい疲れ切るんですよ。でも疲れ切ったらあとは上るしかないんですよね。その上る速度がぐいんって上る人と、崩れやすい砂山を登っていかなきゃいけない人ももちろんいると思うんだけど、とにかく、いったんしかたないと思うしかないのかなって私は思ってます。

正解かどうか分かんないけど、でも、やっぱりいったんはみんな悲しいし、いったん落ち込むし、いったんどうしようもなくなるし、いったん真っ暗になるし、いったんどうしようもないところまで行くんですよ。

全員行くんだけど、行った後に誰かと手をつないだり、誰かに背中を押してもらったりさすってもらったり、何かのきっかけがあれば、絶対そこで底打ちすると思うんですよ。

その底打ちしたところから上るのは難しいし、無理に上らなくていいんだけど、そこから、誰かと一緒にじわじわやっているうちに、自分が病だってことを一瞬忘れられる瞬間が来る。そこまで行く速度は、人によって全く違うんだろうなって思うし、私も3か月に1回病院に行くたびに不安になるし、再検査を受けたら不安になるけれど。ゆるゆると上ってます。

<もやもやの層>

 私、両側乳がんなんですけど、同時に乳房の一次再建をしようと思っていたのですが、できなかった。それがわかったのが、乳がんに対してインプラントを使えなくなった日だったんですね。いわゆる「アラガンショック」。

あと、手術の1年後にBRCA検査が受けられるようになったんです。本当はがんが見つかった時点でBRCA検査を受けていれば、また違う選択肢があったかもしれない。

こうやって、目の前でいろんな区切りがなされてるわけじゃないですか。今もそうじゃないかな? 1か月後であればこの治療を受けられたのにとか、再発予防のこの薬が認可待ちだけど今は使えないとか。

――そうですよね。がんの診断も治療も、どんどん移り変わっていきますよね。

新しいデータとか治療方針で、患者はもっと安心できるわけじゃないですか? でも、それが「当時はできなかった」っていうことで、もやもやしている人たちがたくさんいるんですよ。受けられたかもしれない治療がタイミングによって受けられない、という。乳がんは10年見なきゃいけないから長いですよねその期間が

――そうか、フォローがすごく長いですもんね。フォローの間に状況が変わるのか。

そう。乳がんは10年見なきゃいけないから。もやもや層がいる。このもやもや層の人たちの数が増えちゃってる。しかも働けるから、会社の中でも普通に見るようになって、人事・総務もそこは絶対に避けて通れないわけですよ。ということは、みんながそのもやもやとか、その人がいったん落ち込んでることを受け入れて、この人たちをどうやって早く……早くって言ったらちょっと語弊があるかもしれないけど、何とかして……。

――その人なりの最高のスピードで上がっていけるように。

そう、全員そうやってあげないと。乳がんは働き盛りの人たちが多いし。

――手助けでいうと、大学時代の学務課の人は、阿久津さんによくぞ手を差し伸べてくださったなあと思うわけですが。一般に、患者さんに手を差し伸べるのは、誰の役割だと思いますか。

家族……って言いたいとこだけど、家族は一定の距離を置くべきですよ。

――そう言われると、私なんかはちょっと安心します。

だって家族は家族なりにものすごい心配してるんだもん。家族は家族で迷っちゃってるし、悩んじゃってるんだもん。

――家族も当事者であると。

そう。家族も患者と同じように落ち込んじゃってる。

それに、たとえば女性だと、旦那さんにはそんなに素直に全部言えるわけではない。逆に男性も自分の奥さんには心配掛けまいと思って言わなかったりします。うちの会社にも、サバイバーも、治療してる人もいるけれど、たとえばがんになった男性から、奥さんより先に私に、「嫁にはどうやって言ったらいいだろう」みたいなことを相談されるわけですよ。

――その役割は、家族じゃ駄目なんですね。

大丈夫な場合もあるけど、たぶん家族じゃ駄目なのよ。家族ってそういうもんなんだよね。

――だからこそいいんですね。

そう。だからいいんです。一緒に悩み、一緒に共感する、その空気を一緒に味わうっていうことが多分、家族なんだよね。

だから、手を差し伸べてあげられるのは全然違う人たちじゃないといけないんじゃないのかなと思うのです。

第一はお医者さんかな。お医者さんは、その人がちゃんと分かるまで説明してほしいと思う。「この患者さん、本当に分かってるのかな」って、ちゃんと思ってほしい。患者さんによって理解度が全く違うから、そこも理解してほしいなと思う。

――なるほど。

看護師さんも、そうなれる可能性があると思っています。あと、あんまり小さい病院にはいないんだけど、すごく話を聞いてくれるソーシャルワーカー的な人は大事ですね。

――本当ですね。

「ここまではアドバイスできるけど、ここからはアドバイスしちゃいけないライン」みたいなのが分かったうえでアドバイスができるといいんだけど、普通の人はそれは難しいですよね。

<病理の説明もしてほしい>

ヤンデル先生だから言うけど、もっとちゃんと病理説明もしてあげてほしいんだよね。

――患者に、病理診断の内容を、ということですか。

病理の診断書に○○って書いてあるけど、これが何を意味するのかっていうのを患者さんも学んだほうがいいと思ってるんです。そうか、私は抗がん剤が効きやすいタイプなのか、みたいにね。

単に「抗がん剤が必要です」って言われるよりも、「抗がん剤の効果がありそうな病理診断だから、抗がん剤を受けましょう」って言われるほうが、受け入れやすいじゃないですか。

言い方もあると思う。「これは抗がん剤が要りますね」ってあっさり言われると、「抗がん剤? そんなに私、重篤なの?」ってなるじゃない? みんな知らないから。「分子標的薬って、そんな貴重な薬を。すごい高い薬だし」ってなっちゃうわけだけど。

今、ADC(抗体薬物複合体)っていう、抗がん剤とこれをくっつけて、くっつけた後にヒュッってやるとがんだけを攻撃するような薬がありますよね。それについて、「あなたはこの薬ができるゲノムの状態だから、この治療が受けられるんです」って言われたら、受けやすいじゃないですか。

そういった説明を、ちゃんと患者さんのためにしてくれたらいいなって。お医者さんにそう言われて、「自分がこの後こういう治療をしなきゃいけないんだ」ってわかると、ちょっとだけ先が見えるんです。

 ――先を見るために。

そこで本人が、先が見えたって安心できたら、家族も一緒に先が見えるじゃないですか。そうして初めて、家族はその人にアドバイスができるんだと思う。道筋がちょっと分かり始めてきたから、この後こういうふうに言ったほうがいいんじゃないかとか、会社をどうしようとか、保険の手続きを進めようとか。

がんってみんな怖いわけ。もやもやしてる。このもやもやしているものに対して、本当に針の穴程度かもしれないけど、光が見えるっていうことが、まず初発は大事。再発はまたちょっと別だけど。

 ――なるほどなあ。

治療の選択にしても、先生がたはすごく迷っていろいろ考えていると思うんだけど、そのこと自体を患者は知らないのよ。たとえば、カドサイラを先生から勧められてる患者は、エンハーツを受けられるってことを知らない。知識がない。

今こういう状況で、ちゃんとこういう標準治療があって、こういう薬の種類があるよっていうことを学べてない。隣の人と自分が違うってことすらみんな知らないわけですよ。AさんとBさんのがんは全然種類が違う。性格も違うし、効く薬も違う。みんなそれを知らない。「隣の人と治療が違う」って言って落ち込んだりするんです。

でも、それを誰かがちゃんと、「人と違っていいんです。その人のタイプによって治療方法って違うんですよ。今はこういう薬があって、あなたはこういうタイプです。この薬を受けなきゃいけない意味は、こうこうこういう意味なんですよ」って言って、納得したうえで治療を受けたほうが絶対に幸せじゃないですか。

<第三の人>

患者でも医者でもないような、第三の人が必要だと思ってるの。

――第三の人。それはどういう人ですか?

私、両立支援コーディネーターっていう資格を持ってるんですけど、両立支援コーディネーター以上に「聞いてあげられる人」、「傾聴してあげられる人」。医療情報を伝えるわけじゃないんだけど、その人の悩みに対して答えてあげられる人が、さらに必要だなと思っています。

あるとき、カナダから連絡が来たのね。日本人の女性なんだけど、カナダの病院で両側乳がんの手術を受けた。「両側乳がんでサーチしたら私が引っ掛かったから」って言って、連絡をくれたんです。

カナダって医療制度が違うから、一概に日本とは比べられないんだけど、お医者さんとの間に入ってくれるコーディネーターがいて、「こういう乳がんになったらこういう方法を知っておいたほうがいいよ」といったことをリストアップしたり、「こういう書類があるよ」みたいなものを見せてくれたりしたんですって。

あんまり情報が多くても、いきなりだと困るじゃない。それで、「トゥーマッチです」って彼女が返したら、「急ぎ過ぎちゃってごめんね」って言われて、今度は柔らかいスピードで、情報の供給を再開してくれたんだって。

――プロですねえ。

そのコーディネーターは、この人はもしかすると気が強いタイプで、たくさん情報を渡したほうが喜ぶタイプかもしれないなと最初は思ったのかな。だけど、彼女が「トゥーマッチだ」って言ったら、「分かった、ごめんね」って謝って、「じゃあこういうとこから始めてみる?」っていう相談ができた。

その相談ができたってことそのものが大事であって。

日本でも、相談しに行く場所はあるのですよ。「どこの病院からでもがん相談支援センターに行けます」みたいな話はみんなしてる。けど、してはいるけど、行きはしないよね。

だから来てください、じゃなくてもしかしたら「これが必要ですか?」って聞いてあげられる人を、制度として早くつくってほしい。働けるがん患者さんがこれだけの人数いるんですよ。

私、がん患者さんって社会に復帰できると思っています。全員に復帰してくださいとは言わないけど、もっと早く復帰できる人とか、もっと早く精神的なモチベーションが上げられる人って、世の中にたくさんいる。

でも、一方で支えてくれる人や、背中を押してくれる人に出会わなかったせいで大変な目に遭って、本来復活できるはずなのに復活できなくて、闇の底に沈んでしまう人も見てきてるわけです。そういう人を、くまなくは救えないかもしれないけれど、ある程度だけでも救ってあげられるような、確かな知識と資格を持った人が必要だと思うんです。

<切り口はがんゲノム医療?>

――困っている人の話を聞いて、困りごとの芯を探っていく仕事って、たぶん、かなりスキルが要りますよね。単に、「自分もがんになったことがある」とか、「家族のがんを看取ったことがある」だけでは、厳しいような気もします。阿久津さんの場合は、そこにさらに、ドキュメンタリーを撮影しているプロとしての技術を加えていらっしゃるように思いますが。

これってすごく難しくて……。

がん教育っていうのがありますよね。私も行くことがあるんですが。

その、いわゆる「スキル」を持ち合わせていない、訓練を受けていないような人が行くと、自分の話しかしないんです。

――そうか。「自分の話しかしない」んですね。

いけないところですね。自分の話しかしないこと。

――経験を語ることイコール自分語り、ではないわけですね。

絶対に違いますね。

聞き手の人にとって役に立つように、自分の持っているどの部分が役に立つのかを考えて、選んで、ちゃんと伝えないと伝わらないです。自分の話だけをすると、「この人の場合、この人のパターン」でしかないものを、みんながそういうものなのだと思ってしまうわけじゃないですか。それって一番危険ですよね。

逆に自分の経験だけじゃなくて、自分の見聞きしたものも含めて伝えてしまうこともある。その人がどういう立場なのか、どういう状況なのかとか、どういう性質のがんを持った人がどういう治療をしたらこうなったのかっていうのを端折って、自分が見聞きした断面の部分だけをどーんって伝えちゃうと、これもまたミスると思っています。

――どういう教育があると、上手なコーディネーター、アドバイザーになれるでしょう。

難しいですよね。

たとえば北海道がんセンターには、がん患者連絡会の事務局があって、研修会も行われています。そこで働いてる人たちは上手な聞き方、話し方を分かってやっていらっしゃる。すごく信頼できるトップアスリートみたいな人たち。でも、そこにアクセスする手段が少ないですよね。乳房健康研究会などでもがん教育講師の養成講座もあります。

でもがん教育の講師だからといって患者さんのサポートができるわけではない。私、本当に今、医療資格が欲しくて。

――そのものずばりの資格はないですよね。看護師とか、ソーシャルワーカーとかはあるけれど。

ないと思う。それで私は、遺伝コーディネーターの資格を取ろうと思ったの。

――なるほど、遺伝コーディネーターの人ですか。がんゲノム医療で患者さんと直接お話をする機会が増えていますよね。

あそこが切り口じゃないかな。今の話に一番近いのはそこだと思ってるんですけど。なかなかハードルが高い。。

――その恩恵を受けてる患者さんは確実に増えてます。対象は再発の方ですね。がんゲノム医療って、今のところ、初発の患者向けではないですからね。

乳がんはもしかしたら初発からいくかもしれないし、血液がんもいくかもしれないけど、消化管がんなどは、恐らく再発した人にしかそういう担当が付かないですね。

そうですね。

――初発の人にも、遺伝コーディネーターがやってるような仕事が拡張できたらいいですね。

自分がどういう性格のがんを持っていて、どういうゲノムを持っていて、「この治療はこういう感じですよ」とか、「このへんに効くようなものが用意されていますよ」とかがわかるように、サポートしてくれる仕事。

それに、子どもや親にも自分と同じ病気の心配が及ぶ可能性もあるわけじゃないですか。それをちゃんと伝えられるといったことがないとしんどいし、今ある医療資格の中で一番それに近いのは、遺伝コーディネーターではないかと。

大学院には今からでも行けるっていうか、文系でも行ける。受けるのが大変なのかもしれないけど、2、3年通えばなんとかなれるかもしれないって考えると価値があると思ってますが頑張れるかな・・・。

ああいう方々たちがもっとたくさんいて、いつでも相談受けます、みたいな状態になれるといいなと思ってます。

<会社の中に、がん患者が増える>

私、講演するときによくグラフで見せるんですけど、20歳から65歳までのがんって、1975年から爆増してるじゃないですか。定年延長の世の中で、やれ70歳まで働きましょうってなったら、会社の中にがん患者がものすごく増える状態になるんですよ。

――なるほど、会社の中に。

となると、会社もそれを支えなきゃいけない。その人がどういう道筋で働こうとするのかとか、治療方法によってこのぐらいスキルが違うっていうのを、会社の人事側も分からなきゃいけない。

人事側がそれを分かると、この人は6か月で職場に帰ってきそうだとか、この方だったら1年お休みしなきゃいけないとか、1年でその人が帰ってきた後は、どうしたいのかちゃんと聞いて適材適所に配置しなくちゃ、みたいに、人を宝として活かせて、離職を防げるじゃないですか。

――会社の論理も考慮しつつ。

将来、働く人がいないから、定年延長するわけじゃないですか。けど、それに反して、人は老化現象でどんどん具合が悪くなっていく。がんも増えていくわけですよね。それを今本気で考えないと、10年後、すっごいヤバいことになると思います。

――考えることがいっぱいありますね。どこまで医療保険を使うか使わないか、制度を企業に入れるのか、病院に入れるのか、海外で成功してる事例はないのか、専門家が定期的に議論する場所はあるか、政治側にも参画してもらわないと……。

全部要るね。

――ですよね。

マギーズ東京の秋山(正子)さんは、訪問看護の看護師として患者さんが誰でも寄り添える場所をつくりましょうっていうことで、あの場所をつくってくださっているじゃない? あれはあれでものすごく大変だけど、医療のアドバイスはしないですよね。できないのよ、それは。責任を取れない。それは当然ですよね。

医療の選択を手伝うのは、やっぱり医療職なのかなっていう気がする。

――そこで遺伝コーディネーターか。

そう。医療職がいいんじゃないのかなと思っているのはそういうこと。そういう人たちがいれば、もっと患者は復活できるかな。

<自分事の連鎖>

この6年間ぐらい、「女性活躍とがんのかけ算」という文脈で、いろいろな企業さんでお話しすることが多いんです。

お話をさせてもらうと、みんな健診に行くんですよね、自分事化するから。

すると、必ず1人か2人、がんが見つかるんですよ。乳がんの頻度を考えたら、そりゃそうなんです。

すると、見つかった人たちが連絡をくれるんですけどね。

先週も、ある有名企業で働いてる女性が、「阿久津さんの話を聞いて、健診に行ってみたら乳がんが見つかったんです。ステージゼロだったので、もう今は元気で働いてます」って言うわけです。その方は、「がんと働く」っていうテーマでイベントやりたいですって言ってきてくれた。

そういう人が出てくるんですよ。

――いい連鎖ですね。

この連鎖をもっと爆速的に増やさないとなって思っています。お医者さんも減ってるし、特に北海道なんて医療の状況、考えるだけでヤバいじゃないですか。

――いろいろご覧になると、やっぱり、ヤバいですか。

お医者さんはあまりしない話ですけど、患者側には、いまだに、がんであるってことを隠したいっていう気持ちがあるみたいです。地元の病院に行くと自分ががんだってことがばれるから、そこでは受けたくないって言って、わざと遠くの病院を受診するんですよね。道北とかだと大変。放射線治療20日間とかってなると、とても通えないから、もう入院するしか方法がないんですよ。

本来、外来で治療できる人は、入院させないほうがいいわけじゃないですか。だけど入院せざるを得ない。当然、医療費も増えます。

――そういうヤバさもあるのか。

たとえばそこにちゃんと、「地元で医療を受けられます」とか、「地元で何か相談があったら乗ります」みたいな、地域の医療と遠隔部の医療をちゃんとつないで整理してあげられる人がいるといいんですよね。医療コーディネーターっていうのは、そういう仕事もできる人だといいなと私は思ってるんですけど。

 患者になってはじめて、足りないことがいっぱい見えてくるんだけど、患者になった後になんとかしようとしても難しいよね。

だから、元気でいる人たちがやりとりして、相談に乗れる人たちを増やして、人と人をつなぐ環境を作らないと。

がんイコール亡くなるということではなくて、その後も生活は続きます。ちゃんと病院に通えて、ちゃんと治療が受けられる環境をつくることが大事です。患者の思いをみんながちゃんと納得して、周りの人がそれを支える。へーあの人がんだったんだ…ってならないようにするってことなんですよ。

<たどり着けないよ、みんな>

あと、腫瘍内科ってほとんどの病院にはいないじゃない。

――人数も少ないですからね。

すると、抗がん剤で手がしびれてますとか、脱毛しますとかの、相談に乗ってもらえない。病院によって受けられるものが違うっていうのは、患者からすると、不幸でしかないと思っています。

――本当にそうですね。

あと、緩和ケアについても、「がんに罹患した後、すぐ緩和ケアをはじめていい」って言う話がまだまだ伝わっていない。緩和ケアイコール終末期だとみんな思ってる。ステージ4と終末期が違うってことも世の中の人には分からない。

そして、腫瘍精神科がいろいろな所にあったら、もっと助かる人たくさんいると思う。でも、清水(研)先生にも、たどり着けないよ、みんな。

――そうなんですよねえ。

結局、困ってる人がたどり着ける場所がないんですよ。その人が「がんと生きるという道」を選択するのが早まることで、再発率も下がる、医療費も下がる。ベネフィットばっかりだっていうことを、もっと理解すべきかなって気がする。

患者はがんになった瞬間にどーんと落ち込むわけで、その他の選択肢を選ぼうと思っても知識がないから選べないわけですよ。そこに最初に誰が手を差し伸べるか。いかさまではない人が。公的な人が手を差し伸べるっていう時代にしないと。

<逆紹介は、見捨てられた?>

安定した医療が受けられて、みんながハッピーですよ、みたいな世の中がいいですよね。たとえば、千葉県の柏の葉。あの付近って、今、子どもの数がすごく増えていて、学校も増えていて、その分医療のニーズも増えてるんだけど、ちゃんと介護施設とか訪問介護とか在宅医療の数も増えている。「このエリアはちゃんとしますよ」ってなってる。そういう幸せになろうとしているきちんとデザインされたエリアがある。

「ここが今、すごく幸せな環境をつくろうと努力をしてるから、ちょっとそこの奥の方に住んでらっしゃる方、ここに来てみませんか」って言えたらいいですよね。「ここから離れたくない」はあると思うけど、「そっちのほうが良さそうだから行ってみようかな」と思ってもらって、ちょっとずつ集めることをしてかないと、医療を含めて日本は破綻すると私は思っています。究極的にやらなきゃいけない方向ってそっちなんだろうなと。

――ただ、「大都市にはそういういいとこがあっていいよね」みたいな話になってしまうのがネックですね。北海道でいうと、道北とか道東にそういう場所を作るのはなかなか大変そうだと思います。

北海道って、ちょっと課題が大き過ぎますね。

――複雑ですね。学校教育とか自動車教習所並みに津々浦々で、がん教育の体制も整えていかなきゃいけないのに。

そうなの。

病院は集約化すべきってみんな言ってる。当然、専門性を高くするんだったら集約化したほうが知見もたまるし、いいと思うんですけど、いったん中央で引き受けた人たちを、その後地域の病院につないで戻してあげるところが、雑なんですよね。

――逆紹介ってやつですね。

逆紹介で戻された人も嫌な気持ちがするし、見捨てられたみたいな気がしてさらに嫌な気がする。

――大きい病院で、「もううちではやらなくていいから、あとは地元で見てもらいなさい」って言われた、みたいな。

それだとネガティブになっちゃう。「違う誰かにもリソースを割かなきゃいけない」ということと、「あなたは普通の病院で経過観察をすれば引き続き元気で生きられますよ」っていうことをちゃんと説明できたらいいのに、その部分がすごい雑。

――「あなたは今、生活を重要視するフェーズに入りました。それができるのに、この距離を通って今の病院にやってくるのはもったいないです」と。

そう。

言葉の使い方がおかしいんですよね。

――言葉の使い方ですか。

言葉の使い方。言うことは同じなはずなので。その方のモチベーションや意識改革になるように、ちゃんとトランスフォームして言ってあげられる人が、医療者と患者の真ん中ぐらいにそういう立場の人がいるといいですね。それだけで、ものすごい人数の人が救われるんじゃないかって気がしています。

<楽しいことあってもいいよね>

――阿久津さんは著書の中で、がんになった人が使えるサービスや制度を、ものすごく細かく紹介されていましたよね。あれは、今日のお話しをふりかえると、早稲田の学務課の人が阿久津さんに奨学金の話をすぐにつないだっていうのと同じ系統の話なのかな、と思いました。

もともと、私ががんになったときに困っちゃったことをまとめたんですよね。QRコードをかざしたら、それですぐにいけるよっていうのをやりました。

知識を得ようとして間違ったものをGoogle先生で拾っちゃうのを避けたかった。ちゃんと使えるって思うものだけを、裏をとって、入れたんです。

――自分語りじゃなく。

それもあるかな。

子どもさんがいる方で、がんのことを言いづらいとか、がんでいずれ自分が亡くなったあとに、子どもたちをどうフォローすればいいのかみたいな悩みにも、ホープツリーの取り組みみたいに、一生懸命ちゃんと応えてくださる方はいるんですよ。でも、その人たちとつながる方法がない。SNSも玉石混交で、本当に信用できるのかっていう問題もあって。

――阿久津さんが本でやられたようなことを、行政とかも交えて、もっと大きくやれたらいいですよね。

やったほうがいいと思ってます。マギーズってすごいなって思ったのも、本当にそこですね。ただ、やっぱりあそこは東京なんですよね。

――がん研究センターとがん研の間にあって。

そう、すごいいい場所にあるんですよ。でも、地方の人は困ってる。がんになったことによる精神的なダメージを受けてる人は、地方のほうが多いのかなって気はしています。

――ふと、NHKの「病院ラジオ」のことを思い出しました。サンドウィッチマンがやってるやつ。

あの番組、すてきですよね。

――すてきですね。あれに追随する番組、もっとあってもいいですね。

ちょっとずつ皆さん、意識が変わってきてるから。

みんな、がん患者さんってなると腫れ物に触るみたいになるんだけど、そこまで思い込まなくても、誰かとちゃんとつながって、ある程度の助けを得て、復活が早い人っていうのも一定数いるんですよ。がん患者の人数が増えてきて、世の中のがんに対する捉え方も変わってきてる。企業側もちゃんと努力をして、職場に復活する人も多くなってきてる。

――そういうサポートが充実していくといいですよね。

サッポロビールさんの「Can Stars」(注:サッポロビール社内の、がん経験者のコミュニティのこと)みたいに、がん患者を支えるための取り組みをやってる会社はある。ただ、「それって大企業だからできるんでしょう?」とは言われてしまっているそうですが、決してそうではない。。やり方次第。

やっぱり地方の中小企業だと、就業規則が整ってなかったりするし、苦労も多い。人に言わずに生活を整えるために闘っているがん患者たちがたくさんいるんですよ。そういう人たちがもっと楽になるようにしないと、がん患者さんの悩みは減らない。がんの治療の奏効率がよくなって、ますます生きていく時代になってるのに、苦しい生活はしたくないですよね。

どうせがんになってしまって元に戻れないのであれば、少しはいいことあってもいいよねって思う。楽しいことあってもいいよね。だから、その助けになりたい。がんにならないに越したことないし、がんになったことは悔しいです。がんを知っていたとしても予防できたわけじゃないんですよね。だとすると、受け入れざるを得ないんだったら、受け入れた上でベストな人生を歩みたい。

結構いろんなことが起きて、落とし穴にもはまってるし、大変な目にも遭ってきたけど、遭ってきたからこそ、沼にはまったままで人生は終えたくないなっていうのはありますよ。

<何かあったら頼ってほしいっていうオーラ>

――阿久津さんはたくさんの人に手を差し伸べてこられましたね。

実は明後日、温泉に入るの。乳がん患者13人で。

――あ、書籍に書かれていたイベントですね。

「乙女温泉」ね。みんなで温泉。

――素晴らしいですね。

今回、病気になって初めての温泉ですみたいな方が2人ぐらい来てくださるんですけど、その人たちはやっとの思いでダイレクトメールをくれたんだと思うんですよ、きっと。

その人たちが、自分1人じゃないよってことを知ってもらえたらいいなと思う。

乙女温泉の参加者に、ある看護師さんがいらっしゃったんだけど、今はがんの病院でもう一回働き始めてます。

――強いなあ。

その人って、自分もがんを経験したうえで人を助けてる。確実に救う人数を増やしてるじゃないですか。

――そうですよね。

そういう、次の誰かのためにって思ってくれる人数を増やしたい。病になる人数よりも、そっちを増やしていくほうが人生は良くなるし。

がんだけじゃないじゃない。困ってる人、たとえば、精神的に苦労されて会社も休まれてる方もいらっしゃるけど、多分、同じことなんじゃないかと。

何か困ったことがあったときに、どの言葉が本当に助けになるか分かんないんだけど、ちゃんとその人を見てるかどうか。「1人じゃないよ、なにかあったら頼ってほしい」みたいなオーラをちゃんとみんなが出せてるかどうかって、大きいじゃないですか。

自分自身も助けてほしいときってあるから。

――阿久津さんも、もっと助けられていいのにっていうことを、今考えていました。いや、もうたくさんの人に助けられてるのかもしれませんが。

結構、助けてもらってますよ。

――もっとあってもいいかなと。

私の性格上、まだ人にそこまではね。これでもだいぶ頼れるようになったのです。

そう、私、人に頼ることが本当に不得意だったんですよ。「自分でやったほうが早いや」って思うのと、人に文句を言いたくないから、「じゃあやっとくね」って言ってやっちゃったほうが早く終わるなと思ってた。

最近は、さすがに手が回らなくて、「ここまではやっといて」とか、「私って雑にしかできないから、あとお願いします」みたいなことが言えるようになってきた。だいぶ良くなったんです。この6年ぐらいの自分の成長度はすごいですよ(笑)。

10年前に成長してたら、私もうちょっといい人生歩けてたんじゃないかなって思うぐらいですけどね。

――阿久津さんのお仕事に共鳴しつつ、違う場所にいながらもリンクする、みたいな人がもっと増えてくれるといいですね。

それで言うと、企業さんはすごく多いですよ。製薬会社さんや生命保険会社さんとがんの教育動画をつくらせていただいたり、この間も、保険会社さんとイベントもやりました。イベント以外にも講演などでも呼んでくださる。企業さんってそういう発信者をちゃんと見つけてくださるんですよね。実在でも役者さんでもがん患者さんを登場させるCMや映像のチカラは大きいと思う。

私が会社で働いて、ドキュメントも作りましたっていうことも、大事だったのかなと思っています。私も患者なんだけれども、仕事ができないわけじゃなくて、がんっていうのはある意味、個性の1つなんだよっていうことを、会社の上の人たちに知ってもらうっていうこと。

今回のインタビューも、こういうことやるよって会社の上に報告し、許可も取ってます。「そういう価値がある」ってなると会社の見方も変わるし、次にそういう人が出てきたときの会社の在り方も変わる。そういうことから一歩一歩ですよね。

<ありがとうございます>

今年、北海道大学と札幌医科大学で1回ずつ講義してるんですよ。

――いいですねえ。教養講義ですか?

北大は、公衆衛生学の先生のところで、相手は医学部の学生です。70人ぐらい。「人を見なきゃいけないんだぞ」とか、「言葉の使い方一つで違ったメッセージになったり、不安に陥れたり、逆に励まし過ぎることもあるぞ」っていう話を延々としました。あとは医療者としてだけじゃなくて、いろんな人をつなぐ役目もお医者さんにはある、っていう話。

書いてくれた感想文が、「病気を見るだけだと絶対的に足らないっていうことがよく分かりました」。

――まったくですね。

札医では、「他の人にちゃんとつないで、自分以外の専門家をつくるといったことをしていかないと医療は良くならない」みたいな話。腫瘍内科医の先生がめちゃめちゃ質問を寄せてきました。

――医者の側からも聞きたいことはいっぱいあるんでしょうね。

そう思いますね。

札医とか、旭川医大もそうだけど、地域医療を担わなきゃいけないところに勤める人は、地域の現状とか、地域のまずさみたいなものを知って覚悟を決めてもらえるといいなと思います。どうやって地域をつないでいくか。集約化もするんだけども均てん化もしなきゃいけない。相反することを患者さんの気持ちを考えずにやっちゃっていいのだろうかっていう話もね。

自分は病院に通いたい、でもこれ以上行くとお金かかっちゃうからできない、みたいな患者の悩み。予算を削るばっかりじゃなくて、それが本当に患者さんのためになってるのかっていうことをジャッジしないと駄目なんじゃないのかな。

 ――患者側から見える医療の問題点って、私たちがいくら医学部とか看護学部とかで勉強しても、ぜんぜん見えてこない、見足りないなあと思いました。

たとえば医療者の皆さんが、高度化し続ける医療を患者さんに分かりやすく説明することは大事ですよね。でも、いまだに親御さん世代だと「ここまでの話は言わないで」みたいなゾーンがあったりもするのよね。だから本当に難しい。

――言えばいいってもんじゃない。

そこもすごく難しい。私も探り探りです、話を聞くときは。

――ありがとうございます。誰の代わりにお礼を言ったのか分からないですけど、ありがとうございますって言いたいなあと感じました。

とんでもない。本当に難しいですからね。

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