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「ぱっと見て違う診断」を読み、訂正をかける。ほかの病理医が診断したものを「確定」して電子カルテに送信する前に、チェックする役割で私が見ているのだが、これはもう明らかに違うなとわかってすぐに直す。直すのは簡単だ。バックスペースでバゴーと消して私の考えをばかすか叩き込めばいい。それはまあいいとして、「なぜ初回診断者がまちがえたのか」をフィードバックする必要がある。「あきらかに違うから違う」というトートロジーで終わらせてしまっては誰も成長しない。初回診断者も成長しないが私も成長できない。「これは違うから違うのだ」だけはやってはいけない。しかし病理診断をしているとそういう瞬間はたびたび訪れる。
なぜこれは癌なのですか。それはこれが癌の見た目をしているからです。このようなやりとりも実際には広義のトートロジーではないかと感じる。少なくとも学生時代の私はそう感じた。だから、「なぜ癌なのですか」と言われる日にそなえて、頭のなかにたくさんの理路、理屈、理念を用意した。それらは年月とともに絡み合い、合体変形してより大きくて強い理論に育ったものもある一方で、稀だが決定的な「例外」の出現によって少し弱体化したものもあるし、こういう場合はこうだがこっちの場合は違うこっち、といったようにかまいたちの夜とかときメモのような「選択によってその後の展開がかわるやつ」になってしまったものもある。時間が経つにつれて、かつて私が自分の中に用意しようと思っていた「トートロジーではないやりかたで、なぜ癌なのかを語るための論理」は、ゴッテゴテのギットギトに修飾され、ゴッリゴリのパッサパサに削り取られてなんだかすごいことになってしまって、私はときどきそれを眺めて、言葉を失い、「……まあ病理医が癌だと言ったら癌なんですよね」みたいなことを危うく言いそうになる。そうなったらおしまいだと思う。
ほかの病理医が診断したものを修正する前に熟慮する。あなたは何がどう見えてこの結論に至ったのか、という理路をまずは聞こう。話し上手は聞き上手。教え上手は教わり上手。ほんとうにそうかどうかはわからない。けれど時間を共有して互いの意志の向く方向をそろえる作業をしないと、「あなたの診断はぱっと見ただけで違うとわかる」ということをどう伝えたものだかもはや私には見当がつかない。今日は別々の病院の病理医3人から別個にコンサルテーションの依頼が届いた。メールの返事だけで4時間かかった。私が癌と言ったら癌なんですと言えたらどれだけ楽だったろう。そして、そんな仕事はAIにでもやらせておけばいいのだ。