16|13
大きなくくりでいうと「医学書」であるものを3冊読む。ひとつはいわゆる増刊号だが途中で読み流しに入った。こういう本で自分の中に知識を積み上げてきた時代がたしかにあったが、今の私は、さすがにこのレベルの内容は卒業すべきなのだろう。ただ、「初学者に向けてどう書くか、どう伝えるか」の技術を磨こうと思うと、他人が書いたものを読んで感じて考えることはあいかわらず役に立つ。役に立つはず? 役に立つよ。デザインとかフォントとかしゃべりくちとかね。引っかかりをどれくらい設けるか、とかね。
つぎの1冊は医学系の単行本。これもコラムの部分を中心に読み流した。知ってる話が多すぎるし、知らない話は辞書的で、それほど満足感は多くないが、買っておいて損したとは思わない。こういう本はとにかく買ったその日に目次から索引までをざっと目に入れ、「いざとなったらここにも戻ってこられる」という、たとえるならば「ルーラの行き先」みたいなものとして登録しておくのが大事だ。
3冊目。これは長年お世話になっている方の著作だ。きちんと通読した。すべて知っている話だった。それはそうだ。長年お世話になっているのだから当たり前だ。本人の口から何度も聞いていることなのだから当然である。知っていることだから買わなくていいとは全く思わない。これはすなわち「アルバム」にあたる本なのだ。本よりも実際の体験のほうが、当然、印象としては強い。しかしその強い印象が一生続くわけではない。私は必ず忘れていく。時間とともに失っていく。とけてひとつになっていく。将来、近いか遠いかはわからないが未来に、アルバムを開いて「ああ、あんなこともあったな」と思い起こすために本を買い、とっておく。
というわけで本日読んだ3冊はいずれも今日読む必要がなく、今日読んで成長できるものではなく、しかし今日のうちに読まないと意味がないような本だった。あたりとは思わないがはずれてもいない。そういう日だった。読む時間を捻出するのには少し工夫をした。早朝、午後、診断の隙間。夕方にはウェブの研究会に4時間出たがおもしろくない演題がいくつかあったのでそれも本を読む時間にあてた。この程度で読めてしまうような本を3冊買うというのは費用対効果にはよくない。どうも私は最近そういうもったいない消費をしている。かなり多くの医学書が「大枠でいうとはずれ」になりつつある。それでも川で砂金を拾うようなつもりで本を買って読む。すると実際、砂金どころか金の延べ棒が見つかることが少なからずある。
体感と実感に迫りくるような医学書を読みたい。しかしこれぞという医学書には出会いづらくなった。近頃は医学書を期待して買っても流し読みだけで終えてしまうことも多い。でも、それでも、読まないよりは読むほうをえらぶ。ところで先日読み終えた1950年代の教科書は、読み始めてから終わるまでにたぶん4年くらいかかった。すっごいおもしろかったけどぜんぜん今の診療に役立たない。けどべらぼうに役に立ってる。極端。