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以下は「読んだ話」であって、自分で経験した話ではないということを最初におことわりしておく。ただ、語る際にはどうしても、私の体験に基づいた私の主観による「お化粧」が加わる。だからなんとなく私が体験したふうな語り口になってしまうだろう。
ある患者がいた。
もともと、ある病気「A」と診断されて、投薬をうけた。ところが、数年治療を続けているうちに、だんだん具合が悪くなってきた。
最初は「A」が悪化したのかなと思った。しかしどうやらべつの病気「B」が出てきたらしい。
この病気「B」はかなり専門的な治療が必要になる。ほうっておくと命にもかかわる。ちなみに「B」を診断したのは病理医だ(これを「病理医b」としよう)。
「B」の治療がはじまり、わりとよく効いて、患者は回復した。
その後しばらくして。患者は三たび調子が悪くなった。医者はこう考えた。
「Aが再燃したのかな? Bが再燃したのかな?」
いろいろ検査をした。病理からは、「さらに別の病気、Cが出ている」という判断がくだされた。ちなみにこれを診断したのは「病理医c」だ。「病理医b」とは別の病院に勤めている。
「B」と「C」は、すごく大きくくくると「同じ病気」だ。ただしこの2つを同じと言い張ることは、例えるならば、私と大谷翔平が同じ人間だと語るのに近い。そこは一緒にしてはならない。デコピンは私の腕にはだいぶでかい。
で、「B」ならぬ「C」の治療をはじめた。その結果がどうなったかは書かれていない。おそらくまだ治療中なのだろう。
ここで、主治医は、「BとCとはどういう関係性なのだろうか」というのを気にした。「B」があって、治療で抑え込んでいたけれど、それが再び力を盛り返すと共に「変身」を遂げて「C」になったのだろうか?
そういうパターンもあるとは聞いているが珍しい。そこで、「B」のプレパラートを取り寄せて、「C」とセットにして、あらためて「病理医c」に振り返って診断をしなおしてもらうことにした。
ここで奇妙なことになった。
病理医cは、「B」と「C」を見比べた。これらがやはり「別の病気」であることを確認した。ここまではいい。
しかしこの病理医cは、同時に、べつのことにも気づいた。どうやら最初に診断された「A」という病名がまちがっているようなのだ。
「B」のプレパラートをみると、はしっこに、うっすらと、「A」ではない病気、「D」の証拠があった。
話をまとめるとこうなる。
「A」→治療→「B」→治療→「C」 ではなくて、
「D」→Dにもそこそこ効く、A向けの治療→「B」→治療→「C」。
ぶっちゃけ、AとDの診断は、多少ずれていても、治療が似ている。今、患者のいのちに関わっているのは「C」が治療できるかどうかなので、過去をほりかえしてうんぬん言うことに、大きな意味はない。
しかし。だったらなぜ、この医者たちは、「さかのぼって発見した誤診」をわざわざ文書にまとめたのだろうか?
一連の経過を報告した彼らは、「DとAの時点でまちがってんじゃねぇよ!」という気持ちをおさえられなかったのだと思う。
ただし、同時に、「DとAを最初の段階で区別するのはすごくむずかしい」ということもよくわかっている。後からならなんとでも言える。データが出揃ってから、「あの時点でわかんなかったなんて! 誤診だ! ギャー!」と騒ぐのは、秘境だ。卑怯の誤字でしたがこのまま行きます。
最初の「D」の診断を間違っていなかったとしても、その後「B」や「C」の発症はおさえられなかったのではないか、という予感もある。
「A」と「D」が区別できなかったことは、水に流してもいいかな、という気持ちもある。だから彼らはあまり大声で騒いではいない。
でも、だ。しかし、だ。
騒いではいないけれど、ほかの医者にも見てほしかったのだ。
「まあさあ、診断ってのは難しいからさあ、最初っから全部当てることはできないよな、それはそういうものだよ。でも、もうちょっとがんばって、最初の「D」を見抜けてたら、その後の展開も、ちょっとだけ変わってたりしないかなあ……」。
この報告からは、そういうニュアンスを感じるのである。
他人の体験を自分にインストール。ずいぶんと自分色に脚色してしまった。現実のニュアンスはまたちょっと違ったのかもしれないけれど。こういうのは、役に立つ。
かつて、大海原やジャングル、山脈、南極などを踏破したいわゆる探検家たちは、こぞって「探検記」を残した。先人たちの探検記を読んで自分たちも新たな探検に出て、自分たちの体験をまた本にするのである。それが繰り返された。
他人の本に書かれているものは、主観的で、ゆがんでいて、都合よくて、生存バイアスもごりごりにかかっている。きっと、本を読むのと実際に自分で探検をするのとでは、ずいぶんと話が違ったのではないか。
おいおい、マルコ・ポーロ、話違うじゃねぇかよ!
でも、探検家たちは読むのをやめなかった。読まないよりも読むほうが、リハーサルにはなるしシミュレーションにもなる。
私が他人の診断経験を読むのも、なんというか、そういうものに似ている。伊達に卑怯と秘境を変換ミスしてるわけじゃないんですよぉ。