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学生指導。学会のポスター発表をしたいという。指導医として最初にやるべきことはスケジューリングだ。
開催日を確認。学生の予定を確認。大学の実習が忙しそうなタイミングにポスター作成の山場が来ると詰むという話をまずはする。逆算して、◯月のうちに論文を集めて読みましょう、◯月にはオーラルプレゼンテーション用のスライドを作っておきましょう、学会の◯週前にポスターのレイアウトとデザインをはじめましょう、◯日前にポスター印刷業者に連絡を取りましょう。
余裕をもたせた万全の計画。しかし、まあ、何が起こるかはわからない。実習が予想以上に忙しいとか、バイトや部活でトラブルがあったとか、家族やパートナーとのあれこれに没頭したみたいなアップダウンが週単位でやってくるのが学生時代だ。そしてそれは研修医になっても専攻医になっても専門医になっても変わらない。学会の前の週になって「間に合わない! 大変だ!」となって右往左往するのも経験だ。いっそ今のうちに失敗しておけばいい。
多くの人を巻き込んで専門家の前に立って学術的な発表をするはずが、ポスターのクオリティが低くて聴衆にも同情されてしまい議論にならなかったとか、そもそもポスターが完成しなくて直前で「演題取り消し」なんてことはしばしばある。そういう場合、責められるのは学生ではなく、「きちんと学生を導けなかった指導医」のほうだ。だからどんどん失敗すればいい。
学生ポスターとか言いながら思い切り「指導医のポスター」になっているケースをたまに見る。責められたくない指導医はそういうことをする。気持ちはわかる。けれどそれを学生ポスター発表を呼ぶのは誰のためなのかと思う。それで発表がうまく行きましたとやっている学生は何を身につけるのだろう。社交性か。大切なファクターではある。
そもそも学会発表に関するミスが学生たちの今後の人生において大きな傷になるかといったらそんなことはない。大きな失敗をしたってかまわない。私が立てた予定の通りにうまくやる必要もない。自分の思うままにやればいい。
学生が加速したければ私はニトロになる。でも、アクセル、ブレーキ、ハンドルの操作は自分でやったらいい。自動運転で免許を取ってもしょうがないと思う。失敗してもいい。
これは寓話的に言っているのではない。本当にそのままの意味で言っている。「とはいえ指導医としては、必死で努力する学生のほうをかわいがるだろう」みたいなことを、心の中でぼんやりと想像している学生もいる。でも本当に成功しても失敗してもどちらでもいい。ちなみにそれは「学生ポスター」をなめているからという理由ではない。私の発表を代わりに任せたとしても同じことを思う。どこかの優れた職業研究者の国際的な発表であったとしても別に失敗したっていいだろと思う。
「失敗してもいい」に対する言い訳が多くなるのが私たち世代の大きな特徴だ。「とはいえ」とか「まあ」とか「できれば」みたいなことをすぐに付け足す。「とはいえ成功したほうがいい経験になるよね」「まあ狙って失敗する必要もないけどね」「できればここで上を目指してほしいね」。そういうスパイスを一切抜きにして素材の味だけでがぶりと食う。「失敗してもいい」。余計な味付けはいらない。
「失敗してもいい」。その前提で成功を目指す。本気で。スケジュールは示した。でも論文を代わりに読んであげることはできない。優れたポスターのありようを教えることはできる。でもポスターを代わりにデザインしてあげることはできない。当日の聴衆がこんな質問をしてくるだろうという模擬聴衆になることはできる。でも模範解答を渡すつもりはない。失敗してもいい。ただ、自分でやったなという実感がきちんと残りさえすれば……ああ、うっかり、「ただ」とかつけてしまった。私もまだまだだめだ。失敗してもいい。成功を目指しているならば……ああ、うっかり、「if」をつけてしまった。だめだだめだ。