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数字だけ見るとぜんぜん働いてないのだが実際には朝からギュンギュン忙しい日だった。特に作業が多かったように思う。
仕事と作業の違い、みたいなものをあらためて考える。誰がやってもいいのが作業、俺がやらなきゃだめなのが仕事。わかる。しかし私は働くということに承認欲求をどこまで持ち込むかについてはやや慎重派である。基本的に世の多くの人は作業を嫌い仕事を好む(※何はなくともはたらきたい、という意味で書いているのではなく、自分がそこに関わることに意味がうまれるようなはたらきかたを、どうせはたらくなら選びたい、という人生の方針の話だ)。
しかし、言いにくいのだけれど、じつは私は作業が好きだ。ここは本当に丁寧に語らなければいけないのだけれど、もしかすると、仕事と作業の好き加減がほとんどいっしょかもしれない。というか作業のほうが好きかもしれない。だから、世で言われている「仕事論(例:作業ではなく仕事をしよう!)」を見ると、8割同意なのだけれど2割ほどコンフリクトが生じる。
私は作業が好きだ。誰がやってもいいことを自分がやるのがわりと好きだ。
そもそも、自分にしかできない「仕事」をやるのはあたりまえのことだろう。だって自分しかできないんだから。ほかの人がやりようがないんだから。「仕事をやらない」とき、それはつまり、その仕事自体が世に存在しないということになるから、「仕事をやらなかった」という事実もまた消えてしまう。仕事というのは、やるかやらないかではない。やるか、ないか、なのだ。「仕事をやる」 or 「仕事がない」。「仕事をやる」のはトートロジーだ。「仕事」が定義された瞬間それはもう存在しているし、「やらなかった仕事」なんてものは存在しない。「仕事をやらない」は存在しない。
これは別に、クリエイティブな仕事を下に見ているとかではない。自分にしかできない仕事をこなしているとき、そこには、「自分が成し遂げたからこそ漠然としたイメージが実体となり世に在るのだ」という、責任感と達成感のフルーツポンチのようなものが生じる。尊い。仕事はいい。仕事は好きだ。しかし、だからといって、「誰にでもできる作業をする時間が無駄」とは、私はまったく思わない。
「自分にしかできない仕事」の人助けなんてのは、たくさんの人をばくぜんと喜ばせるイメージだ。「誰にでもできるけれど自分もやれる作業」のほうは「自分がやらなければ代わりにやることになった誰か」をダイレクトに楽にしている。この直裁性に私は救われる。
医療というのはわりと誰にでもできる仕事……すなわち「作業」の部分がかなりある。診断という行為は医師にしかできない、なんてことも言うが、逆に言えば毎年8000人ずつ増えて4000人くらいずつ死んでいく医師免許保持者であれば誰にでもできるのだから、診断はつまり仕事ではなく作業というべきである(※ここで「いい診断は誰にでもできるわけではない」とか言い出すのは、自分のやっている作業を仕事と呼びたくてしょうがない、プロフェッショナルと呼ばれる人たちなので尊敬してあげてほしい)。
作業をいやがり仕事をしたがる医師たちは、「この手術は自分でなければできない!」と言いながらプロトコルにのっとり人の作った機器を駆使して人の力を借りながらすでに名前のついた手術をするし、「この論文は自分でなければ書けない!」と言いながら人の文献を引用しAIを用いて校正をして人の名前と連名にしてすでに型の決まった文章をすでにある雑誌に投稿するし、「この患者は自分でなければ救えない!」と言いながら受け継がれてきた日本語を用いてコミュニケーションをして人々が築き上げたガイドラインを踏まえて有識者が認めた標準治療を患者に施す。それが仕事であると信じて。
私は作業が好きだ。私が作業が好きだと堂々と言えるのは、私たちの多くが、じつは作業的であるものを仕事と言うことで自分を鼓舞するタイプの生き物であると、なんとなく気づいたからだと思う。私は作業が好きだ。誰にでもやれる仕事を大事にする。自分の仕事とはいったいなんなのだろう。私はこれまでに、仕事をしたことがあるのだろうか? 私は作業が好きだ。今日はたくさんの作業をした。