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けっこうな頻度で経験する話。重い病気にかかった人がやってくる。治療をしたい。治療のためには診断を付ける必要がある。診断が付かないとドンピシャな薬が使えないからだ。そこで、検査をする。血液を採ったりCTを撮ったり細胞を採ったりする。とりまくる。各種の検査というのは、シャーロック・ホームズが集める証拠のようなものだ。ひとつずつ見てもわからないが、組み合わせると真実が見えてくる。
ただ、患者の状態があまりよくないことがある。刻一刻と悪くなっていくようなこともある。そういうときは、証拠集めにかなり苦労する。
たくさん検査をすると時間がかかるからだ。MRIやPET-CTなど、撮れるものなら撮りたいと思うが、時間がかかる検査だし、一刻を争う患者にそうそう使えるものではない(時と場合によるのはもちろんのことだ)。
また、細胞採取も患者の体に傷を付ける。針の先で細胞を採取するにしても小さな穴が空くわけだし、おなかの中の深いところにある細胞を採ろうと思うと手術が必要になる。手術という操作自体がけっこう患者にとっては負担だ。
とはいえ、検査を惜しむと、今度は診断が決まらない。診断が決まらないと治療方針も定まらない。少ない情報から診断を当て推量して治療を始めることもある。しかし、診断が間違っている場合には、治療の副作用だけが患者にダメージを与え、病気はいっこうに良くならない。まして治療のせいで患者の命が縮まったなんてことがあったら、誰にとってもつらくてしょうがない。
検査すればわかることは増えるだろう。しかし、さまざまな理由で、検査することでかえって事態が悪化することもある。その中間を探る作業というのは、むずかしい。ストレスフルだ。
あえて極端な話をする。常識とか倫理とか人の心といったものをすべて無視した場合、究極的には、「今そこにいる患者の何もかもを検査に出したい」という欲望が残る。何もかも、というのはどういうことか? 超・高線量のCTでものすごい解像度で画像を撮り、頭から足の先までぜんぶすりつぶしてすべての細胞のゲノムもRNAもぜんぶ見てしまうということだ。現代の技術では不可能な深度での解析。「味噌汁の味見」のような、体の血液のごく一部だけを調べる検査などとは違い、ものすごくたくさんの情報が手に入る。ただしそのとき患者はすでにこの世からいない。被爆で死にすり潰されて消える。これが「究極」である。ばかな妄想だと思うだろう。
その、ばかな妄想、「患者をすべてすりつぶす」ことはさすがに世迷言として、「患者に影響のない程度に、はしっこのところをちょっとだけすりつぶす」ことが、どこまで許されるだろうか? 極悪加トちゃんの「ちょっとだけよ」で許されるのは8時のお茶の間だけだョ。
「俺には難しいことはわかんねぇからさぁ、先生のいいようにやってくんない。」
こうやって医療者に丸投げするというのも一つの手ではあるだろう。しかし、ジレンマを抱えた医療者たちの、迷いの理由くらいは、いつかどこかで知ってもらってもいいかもなあと、患者側に回ることもある私から、控えめに申し添えておく。