なんとなくフラクタル

15|10

血液内科やリウマチ膠原病内科や脳神経内科などから病理診断のむずかしい生検ばかりが提出される。高確率でひねりがある。直で診断にたどり着くことが少なくなった。世の中の有病率とはべつに、「当院を受診する患者における有病率」というものが間違いなくあって、今、うちの病院には、「診断がむずかしい患者(※治療がむずかしいかどうかはまた別)」がおとずれやすい状態ができている。他院から患者を紹介されるくらいには主治医が信頼されているということかもしれない。

しかし、そもそも典型的な病気などというのは存在しないかもしれない。

私たちの体は、それなりの長い期間にわたって、「健康」とされる状態に保たれている。この状態は決して点でプロットできるわけではなく、ある程度幅のある概念である。それがなにかの拍子に「病気」というほうにずれる。なにかの拍子と言ってもきっかけとなるファクターは決して単一ではなく、それは複雑系のなせるわざだから、アクセルとブレーキを同時に踏むような、ハンドルを右と左に同時に切るような力がいくつも加わって、偶然とか「あや」なども作用して、結果的にどちらかにぐぐっとずれていく。そのずれた先の場所を恣意的に線で囲って「〇〇病」と名前を付けている、そのようなかたちで定義される「◯◯病」に、典型などというものが果たして存在するのか。

「典型的な◯◯病と診断する」という行為は多分に方便である。診断とは分類でありつつ記述でもある。分類には典型という概念があり得るが、記述には典型という概念はそぐわない。それは日本に住む誰か一人をピックアップしてその人生を存分に記載してみたときに、「なるほどこの人は典型的な日本人ですね」などと言えるかという話に近い。最大公約数的、という意味で、「典型」という言葉を広義に用いるならば言えないことはない。でも、私たちはみな、ひとりひとりが、「自分を成り立たせている交換不可能性」のようなものを多少なりとも持っていて、それを無視して「典型」と言われてもしっくりこない。「典型的な〇〇病」という言葉にはこれと同様の掻痒感を覚える。

私はちかごろ、「典型的な◯◯病ですね」という言い方をしづらくなってきている。「細胞形態は典型的な◯◯病のパターンです」とか、「免疫系質は◯◯病のド典型です」のように、評価項目を狭く定めた状態であれば、言う。「フラクタル次元は◯◯病の典型だと思います。しかし、テクスチャの肌理は非典型的に思える」。治療という大きな目的の前ではいささか些末な話だ。

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