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医師が一般向けに記事を書くとき、「必ず参考文献を付けるべきである」と考える医師が最近多い。それ自体は丁寧でとてもいいことだし、かなり同意見である。
しかし、私が考えるに、それはあくまで次善の策である。
本当に社会にとってすばらしいのはどういう状態だろうか?
それは、「医師」という肩書きの人間がしゃべっていればそれだけで信用できる、というように、あらゆる医師がふるまうことではなかろうか。
「医師」という肩書きの信頼度が十分に高ければ、「医師であれば当然準拠しているであろう文献」をいちいち記載する必要は(少なくとも非医療者にとっては)ほとんどない。「あの医師が言っていたから正しい」で事足りる。
そもそも記事を掲載する側も、「この医師なら信用できるんじゃないかな」と思って、執筆を依頼しているはずなのだ。
しかし、もはや、医師を名乗る人間は信用できない。残念ながら今はそうなのだ。
医師といいつつあやしい情報を発信している人間が少なからずいる。根拠に乏しいことを言って自分に利益を誘導するタイプの悪党が混じっている。
そのため、「信用できない医師と信用できる医師を見分けるために、信用できる医師は文献を用意していますよ……と、おかしなやつらにプレッシャーをかけるしかない」という話になってくる。
悲しい話だなと思う。
なお私は、記事にいちいち参考文献を書く必要まではないと考えるタイプの医師である。その分、記事の文字数が増えて、そういうのが好きな人以外には読みづらくなるからだ。リーダビリティは重要である。しかし、「だから参考文献情報が要らない」と言っているわけではない。
たとえば、記事そのものには文献うんぬんを書かないにしても、執筆者のプロフィールからQRコードを介して、ブログでも公開Facebookでも、どこかに飛んでもらって、そこに「今回の記事の根拠はこれらの文献です」と、引用情報の開示があればいい。
そうすれば、メディアの側も、「文献を掲載するためのスペースを確保するためにデザインに四苦八苦する」みたいなことはしなくて済むだろう。
というか、QRコードの添付などせずとも、医者は一般向けの記事を執筆するたびに、自らのプロフィールページみたいなものに、自分で根拠をきちんと説明していけばよい。
で、メディアは、そういう工夫をしている医者だけに執筆を依頼する。
信用できないのは医師の側だ。したがって、めんどうを負うのもまずは医師の側であるべきだろう。そうやって真摯に情報に向き合う姿に、メディアの側が感動して、そうじゃない医者に仕事を依頼するのは損だなと、思ってもらってなんぼ、なのではないだろうか。