いちぱら先生

18|30

夜も更けた。院内スマホを取り出して電源を切ろうと思ったら電話のアイコンに不在着信回数が9と表示されていて目を疑う。いつのまに? 今日はずっとここにいたのに? まさかと思ってiPhoneユーザーの技師にたずねると、業務用iPhone(たぶん7くらい)の横についている謎のスイッチを操作してくれて、そこをカチッとずらすと消音モードになるというのでひっくり返ってしまった。そ、そんな機能ついてたのか……もうだいぶこのスマホ長く使ってたけど一切知らなかったぞ。たぶん今朝、飛行機に乗って札幌に帰って来るときに、かばんのなかで勝手に押ささった(北海道弁)んだろう。まいったな。

かかってきた電話の相手を見てそれぞれ想像をふくらませる。折り返すには時間が遅くなってしまった。この研修医ふたりは学会に提出する抄録の話だろう。まあ明日でいいだろう。こちらの放射線科医はなにかな、検体提出についての質問だろうか。悪いことをした。ほかの技師にでも聞いてもらえただろうか。こちらの外科医はとにかくしょっちゅう電話をかけてくる。私が病理診断していない件についてもなんだかんだで私に電話をかけてきて解決しようとするタイプだ。私につながらないと思ったらほかのドクターに電話をするくらいのことはする。あと数人、こちらは……明日の早い時間に折り返そう。たぶん至急の案件ではないだろうが(至急だと直接病理に飛び込んでくる)。まいったな。

こうして今日は結果的にぜんぜん電話対応をしないままに仕事をした。しかしだからといって今日の仕事がすごくうまく進んだかというとそうでもなかった。外注検査と新規の診断と、翌日やってくる出張医のための検体振り分けとを同時に行いながら来年の学会発表の抄録を書いたり講演タイトルをメールで送ったり、他院の医者の抄録をチェックしたりとしたのだけれど、没入して働いたつもりがかえって散漫だったような気もする。今ふと思い出して確認するとメールをひとつ返信し忘れている。きわめつけはついさっき、ウェブで毎週発表しているプレゼン「今週の一例」のファイルを名前をつけて保存とするはずがうっかり上書き保存してしまったこと。最近のWindowsだからなんとかなるかなと思ったが、あまりにすばやく前のバージョンを削除して作り直してしまったためにかえって前のバージョンが復旧できなくなっていた。まあこんなものまた作り直せるからいいやと思ってさっさとあきらめたのだけれど、これがもし、100時間以上かけて作った先日の講演プレゼンだったらと思うと睾丸がちぢむ。

ひとつひとつの診断のたびに外界の情報をばっさりとカットして集中することは大事だ。その患者、その細胞から、いろんな意味で「目を離してはいけない」。没入しないと見落とすものがいっぱいある。そして、しかし、同時に、診断のたびにその一例にばかり囚われてしまうと誤診の原因になる。肉眼的に脂肪の色に見えたから脂肪肉腫だろうと「決め打ち」してしまったばかりに、血管系の中間悪性腫瘍やextragastrointestinal GISTの可能性に数日気付けない、みたいなタイプの落とし穴が年に何度か歩道の横の側溝みたいにぽかりと空いている。目の前の細胞にぐっと入り込みつつ、かつピントフリーズしないようにときどき焦点距離を無限遠に開放する感じ。「脇目を振らず、しかし岡目八目的でもある」という状態に自分を保てると、たぶん、一番いい病理診断ができる。

しかしこれはあくまで病理診断の話であって、病理診断の話でしかなく、がん医療の中でいうと1%にも満たないとても小さく狭苦しい専門領域の話なのだから、困ったものだ。集中してとらわれない、みたいな武道の達人みたいな話を駆使して1%。そして私はその1%において本日「電話をとらない」という不誠実で評判を微妙に下げた。まいったな。友好度が下がると診断のための情報収集力がちょっと落ちるんだよな。

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