名前をつけてやる

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重箱の隅みたいな話なのだけれど、病気の性状を言い表す形容詞にscirrhousという単語がある。これを和訳する際に、ある臓器では「硬性」という言葉を使い、別の臓器では「硬化性」という言葉を使い、あるいは「硬化型」という言葉を使ったりといったように、和訳のズレというかブレが存在する。

どうでもいいじゃん、と思われるだろうか? そうでもない。これが、けっこう問題なのだ。

たとえば、硬化性〇〇という名前の病気と(〇〇はいろいろあるのだが伏せる)、硬化型◯◯という名前の病気は、じつは同じものだ。しかし、片方を検索してももう片方が引っかからなかったりする。データベースを活用しようと思うとき、困る。

どっちかに統一してくれ! しかし、じつはそう簡単でもない。

両方の名前が使われてきた歴史というものがある。どちらかが淘汰されることなく、両方が生き残ってしまった理由というのもやはりある。「硬化性◯◯と硬化型◯◯は微妙にちがう病気だよネー」みたいなことを言い出す達人もいたりする。

あらゆる病気には、「別の呼ばれ方」が多かれ少なかれ存在する。そして、それらは相互に読み替え可能というわけでは、必ずしもない。似て非なる名前が付いて安定するということは、つまり、似て非なる病態が存在して使い分けられている、ということでもあるのだ。

「風邪」と「感冒」。まったく同じ病気の違う呼び方と断じてしまってよいか? 使われるタイミングとか使用者のポジションとかに、微妙な差がある。医者どうしの間では感冒というちょっと小難しい呼び方をしたほうがおさまりがいい。でも、自分の子供に向かって「おっ、感冒症状かい?」なんていうのは空気が読めてない。

このような「病気の名称」に関する話題は、往々にして、科学を追求するタイプの人間には嫌われる。「名前が本質なわけじゃない、ひとつの病気を独立した概念として成り立たせるコアはもっとほかにある」と、研究者ならそっぽを向くかもしれない。

しかし、私は、名前こそが一周回って本質に肉薄しているのではないかと感じることがある。

名前というペグをとっかかりにして、私達は病気という大岩をクライミングしていく。クライマーたる我々は、大岩を登っているのであって、ペグを登っているわけではない。それはそうだ。しかし、自分の重心がしっかりと支えられる場所にペグを打ち、体をあずけ、登るのに都合がいいように何度かペグを打ち替え、微調整をして、ここぞというペグを大事にしながら命綱をそこにもやいて、みたいな作業を繰り返していくとき、いつも私達が握りしめているものは大岩そのものではなくてペグであって、クライミングが終わったあとに、結局手の中に残る感触はペグの冷たい硬さだ。であれば、クライミングとはつまり、ペグをたどっていく作業にほかならず、病気に名前を付けて病気を調べていく営為というのも、じつは名前を握りしめたり名前を踏みつけたり、名前を打ち替えたりする作業にほかならないのではないか。

病気の名前を付けたらすぐに一歩下がって俯瞰する。それで本当にあっているか? と考える。いったんペグを打ったらいきなり全体重をそこに乗っけて信頼しまくるのではなくて、いったんじっと見るわけだ。触ってみる。軽く体重をかけてみる。シミュレーションをする。ここに左手、そして左足を乗せて、ぐっとふんばって、次に右手をどこまで伸ばせるだろうかと。その作業自体におそらく、病気の本質みたいなものがにじみ出てくる、ことがある。

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