※毎週火曜日、書籍『がんユニバーシティ』で行ったインタビューの、「編集中の原稿」を全文公開します。書籍版ではここから大幅に編集をし、各先生方からの寄稿をはじめとするたくさんの文章をコラム的に散りばめて、一冊の本にまとめます。このブログでは、インタビュアー(市原)が興奮し続けた「生の雰囲気」、編集前の原稿だけが持つ猛烈な(ちょっと読みづらい?笑)エネルギーを味わっていただきたいと思います。
科目名: 消化器内科
講師: 門馬 久美子 先生(早期胃癌検診協会)
テーマ: 「早期がん、前がん状態の診療」
学期: 2年前期
Q1. 門馬先生のご専門と、お仕事の内訳をお教えください。
A1. 内視鏡検査と早期がんの内視鏡治療を中心に診療を行う消化器内視鏡医です。
現在は検診病院に勤めているので、仕事の内容は変化しましたが、以前は、東京都立駒込病院消化器内科に勤務しておりました。
内視鏡検査は週2日。1日で12~14人くらいの患者さんの内視鏡検査をしていました。内視鏡治療は週1.5日、外来は週2日(それぞれ30~40人)。検査と治療内視鏡中心の仕事で、入院患者さんも受け持っていました。食道がんの精査および内視鏡治療の毎日です。
具体的な仕事としては、内視鏡による早期食道がん・異型上皮の拾い上げ診断、食道がんの深達度診断、治療内視鏡の開発と実践などです。
加えて、内視鏡治療例の予後の検討、異時性多発がんの発生や他臓器癌の合併に関する検討、内視鏡治療の適応・適応拡大に関する検討、咽喉頭がんの拾い上げ診断などに関する検討などを行ってきました。
昔は、抗がん剤治療も行っていましたが、消化器内科の病棟は検査が多いため、昼は「無医村」になるため、術前の抗がん剤治療は食道外科に、進行がんに対する抗がん剤治療は腫瘍内科にお願いしていました。
Q2. 門馬先生にとって、がんに携わるとはどういうイメージでしょうか。
A2. 患者さんを長く診ていく必要があります。
早期がんの状態で病変が発見できれば、内視鏡で治療することが可能であり、病気からフリーにすることができます。早期がんで発見できれば、患者さんをハッピーにできますね。しかし、その後も異時性食道がんや他臓器がんを合併することがありますので、内視鏡治療が終わったからといってそれで安心というわけではありません。長期に経過を観察する必要があります。患者さんへの生活指導や、定期的な検査の必要性も、十分指導しなければいけません。
内視鏡治療の適応を外れた症例に対する治療例の中には、食道狭窄を起こし、長期にわたる拡張術が必要なこともあります。深達度によっては、治療後の転移の有無の確認も必要です。いずれにしても、長期の観察が必要です。
また、家族内にも、食道がんが発生することがあります。したがって患者本人だけでなく、家族の方々ともよく連携を取り、検索するべきでしょう。患者さんのご家族に対して、「ご兄弟の発症例など、ご家族での発症例があります」とお話ししていたために、自覚症状がなくても検査に来られ、実際に病気が発見された症例もあります。もちろん早期病変のため、内視鏡での治療が可能でした。
Q3. 門馬先生がこれまでに出会われた、がん医療従事者の中で、印象に残っている方はいらっしゃいますか。
A3. きっかけは、外科医の吉田操先生です。
駒込病院に勤めはじめたころにお会いした、食道外科医の吉田操先生から、「より早期の食道がんを発見し、侵襲度の小さな内視鏡治療にて治療をしませんか」と誘われました。私は内科医のため、最初、「合併症が起きたら責任がとれないので、やりません」と、お断りしていたんです。しかし、「何があっても、食道外科がバックで責任を持つから、やりませんか」と、再度誘われました。
じつはこの頃、結婚を控えており、できれば、少しおとなしくしようと思っていた時期でした。学会発表が終わり、結納し、結婚のために、次期の学会の申し込みをしなかったため、一瞬、暇になりました。その時です。たまたま早期の食道がんの症例に出会い、初めて内視鏡治療を行うことになりました。その症例が私の原点になりました。私の内視鏡治療の歴史は、私の結婚人生と同じ長さとなりました。
その後、治療を継続することで、治療法を広めたり、治療成績を提示したり、新しい治療手技を開発したりなど、色々な事を行ってきましたが、そのいずれにも、吉田先生から色々なアドバイスを頂きました。吉田先生は、外科の医師でありながら、検査にも精通されておられました。先見の明があり、オリジナリティーを大切にされる非常に厳しい方ですが、若手の医師にも同じように接し、丁寧に教えて下さる素晴らしい先生です。患者および患者の家族とも十分対話され、コミュニケーションを十分取りながら診療に携わる姿は、皆が参考にすべき医師と思っています。
駒込病院で始めた、食道がんの内視鏡治療は日本で初めての治療手技のため、治療の開始にあたり、内視鏡治療時には、必ず外科医と病理医が立ち会って治療手技を行えるように計画を立てました。外科医がいることで、安心して治療手技が行え、病理医がいることで、摘出した標本をすぐに伸展・固定しながら議論が行える、この環境は大変贅沢な環境で、外科医、病理医とともにチームが組めた治療の一体感は、今も忘れられません。
症例のカンファレンスでは、食道外科、腫瘍内科、放射線科、病理医までが一同に会して、みんなで一例一例を検討しました。今の私が大切にしている「チーム医療」の原点ですね。職種の垣根が低くて、誰でも意見を言える雰囲気でした。私は内科の立場で患者さんを診ていましたが、外科の先生方も、「どう思う?」と聞いてくださる、お互いの視点を尊重しながら診療が進むのが当たり前でした。
Q4. がん医療やがん研究に従事するにあたって求められる、専門性や職能(スキル)は何でしょうか。
A4. がんだから、という特別なものは無いように思いますが。
診断できる画像が撮影でき、画像を解析でき、画像診断が十分できること。少しでもいつもと異なることがあったときに、「なぜ?」という疑問をもって対応する、調べること。
それから、症例を集積してまとめたり、速やかにものを書いたりできること。診断や治療に関して説明できること。なにより、患者さんや家族と十分にコミュニケーションが取れることは、共に戦ううえで最も大切なことです。
方針は時代によって変わることがありますが、誠実さは変わりません。患者さんの話を最後まで聞くこと。わからないときは「わからない」と言うこと。一緒に悩むこと。それが信頼を生みます。医療は、知識や技術の競争ではありません。人の心を扱う仕事です。だから、どんなに忙しくても、「人を観ている」という意識を失わないでほしいですね。
Q5. 医療従事者や研究者が修める、「がんの学問」(がん学)を想定します。それはどのような学問体系でしょうか。
A5. 病気に関してと、治療を受ける患者に対して、それぞれ学ぶことがあります。
病気に関しては、
- 現状でわかる疾患についての知識+新しい知見。
- 診断および治療を選択する上での、各臓器の特徴。そしてこれから起こり得ることを十分に知っておくということ。
- 治療に対する反応、その予後など。
治療を受ける患者に対しては、
①背景因子として、家族構成や生活環境、家系、職業などを把握できること。
②患者さんとの会話の中で話ができる程度に、趣味や特技などを確認できること。また、アルコールの摂取状況なども含めて確認することでしょうか。
Q6. 「がん学」を修める学生たちが、心に留めておくべき「勘所」はありますでしょうか。
A6. 優しい言葉と優しい態度で、温かく接してください。
小児科の先生に、「子どもが病気のときは、子どもを持つ親も含めて、病気と思って対応してほしい」と言われたことがあります。
がんだけでなく、病気で来られた患者さんは、弱いものです。どんな病気の患者さんにも、優しい言葉と優しい態度で、温かく接してください。もし、自分の肉親が病で倒れて病院に来たら、どのように接してほしいかを常に考え、対応してほしいです。
医師はいろいろなことを知っているので、疾患や治療の話を患者さんにするときに、やはり、難しい話をします。でも、患者さんの中には、高齢であったり、知識があまりなかったり、初めて聞く言葉での説明だったりで、十分ご理解いただけないことがあります。できるだけ平易な言葉でゆっくり説明しましょう。理解の程度を確認しながら説明することが必要ですね。
症状の出方や、経過観察の状況、治療の効果などは、同じ病気であっても症例により異なることも多いです。教科書と異なる、いつもと異なる状況がみられたときは、常に、疑問を持って調べ、対応してください。
自分の専門に閉じこもらないでほしいですね。医学は広くて深いです。けれど、どれだけ学んでも、目の前の患者さんの人生まではわかりません。だからこそ、人に興味を持ち続けてほしいです。それが、医療者としてのいちばんの力だと思います。
私も若い頃、たくさんの経験をしました。気づけなかったこと、伝えきれなかったこともあります。でも、その一つ一つが、次の患者さんへの学びになっています。失敗を恐れず、人に向き合ってください。
Q7. 「がん学」を後輩達に教える指導者たちが、心に留めておくべき「勘所」はありますでしょうか。
A7. 良い仲間、相談しやすい先輩、育てたい後輩を持つことですね。
普段と異なるような事柄に対応したときには、文献などを検索し、内容をよく調べさせましょう。1例1例を大切にし、なにか問題点として取り上げるべきことがあれば、できるだけ報告をさせ、あるいは文章を書かせるように努めましょう。
また、勉強になる課題を探し、テーマとして勉強させ、まとめさせましょう。一番は、良い仲間と相談しやすい先輩、育てたい後輩を持つことですね。いろいろな領域に亘って、よい友を持ち、人との輪を大切にしましょう。私にもたくさんの仲間がいます。葉梨(智子)先生、藤原(〇〇)先生、川田(〇〇)先生、熊谷(〇〇)先生、大森(健)先生、有馬(美和子)先生、幕内(雅敏)先生、滝澤(登一郎)先生、小池(盛雄)先生……。
Dialogue
<茗荷谷時代>
―――平素より多くの会でたくさん勉強させていただいております。
こういう形でお話しするのははじめてかもしれませんね。ちょっと緊張しますね(笑)。
―――ありがとうございます。直近には「ゆるふわ読影会」(註:ほぼ毎週オンラインで開催されている内視鏡系の勉強会)でもご指導いただきまして。
私もたまにコメントしますが、「教える」というより「共有する」場ですよね。若い先生が症例を出して、それをみんなで考える、あの時間がいちばん楽しい。私自身、あの場で多くを学んでいます。
―――その「共有」の原点には、やはり早期胃癌研究会、いわゆる「早胃研」の文化があるように思います。
そうですね。あれはもう、私にとっての「原風景」です。
早胃研では、臨床医がX線や内視鏡像を提示し、診断に関する論議が行われ、、病理医が提示された顕微鏡像を解説する。一つの疾患に対して全員で議論します。あの緊張感と熱気は、他では味わえませんでしたね。
最初の頃は、よくわからないまま聴いていましたが、先輩たちが本気で議論している姿を見て、「この人たちは本気で戦っている」「勉強しなければついていけない」と感じました。もともと私は研究より実践のほうが好きだったので、あの熱の中にいられるのが単純に楽しかったです。
―――茗荷谷時代、という言葉も聞きます。
ええ。今は笹川記念館で開催されていますが、その前は、エーザイ本社の横にある茗荷谷のホールの4階で行っていました。あそこは小さかったため、毎回ぎゅうぎゅう詰めで、熱気で空気が揺らいでいました。消防法に引っかかるようになって、あそこでの開催はできなくなったんですけど、あのころの手作り感が好きでした。今のポインターの代わりに、丈の長い竿を持って、病気の部分を示し、読影をしていました。
細井(董三)先生のX線の読影、幕内先生の内視鏡像の読影、滝澤先生や小池先生の病理の解説など……。皆さんのやりとりが、生きた教科書のようで、本当に毎回しびれました。
―――(病理医である)滝澤先生や小池先生とも。
はい。駒込病院時代に、お二人のもとで、少し病理の部屋に入ることを許してもらったんです。プレパラートを触らせていただいて、内視鏡像と照らし合わせて、学会発表用の症例を準備させていただくこともありました。
小池先生はとても厳しくて、「余計なことをしゃべるな」と怒られたり。でも、翌日には、「この病理に合う内視鏡像はこうなのか」と解説を求められたりもして、とても勉強になりました。
滝澤先生は、飲むと豹変するので有名で(笑)。一次会では賑やかでも、二次会に向かう途中でまるで別人になって……。あれは衝撃的でした。
でもすばらしい先生方で、一般病院の私たちにも丁寧に指導してくださいました。心から感謝しています。あの頃に学んだ「現場の目」が、今の私の基礎になっています。
―――最初に早胃研に参加されたのはいつ頃ですか。
最初は、大学の研修医の時代で、神奈川県から勉強に来ていました。当時は、勉強より、研究会の終了後に友人と食べた熊本ラーメンのおいしさに惹かれて、参加していたんです。不純な動機です。本格的に参加したのは、吉田操先生が、駒込病院に来られてからですね。
そのときまで、私は普通の消化器内科医でした。もともと、「がん屋」になるつもりはありませんでした。家族に医師もいませんし。「一人くらい医師がいてもいいかな」くらいで(笑)。
でも、スライドを見ながら、「この粘膜を写した一枚の中に、人の生き方が全部詰まっている」と感じた瞬間があったんです。がんを通して人を見ている――そう思った瞬間に、自分の中でスイッチが入ったんです。
<理数と芸術に挟まれて>
私の母と叔母は、数学の教師をしていました。私も、学科の中では、数学が一番好きだったこともあり、何となく「教師になる」という道が自然に意識の中にありましたが、どうしても違和感がありました。子どもながらに、「私は人に教えるより、人を観察したい」と思っていたんです。ただ、家族を含め、親戚一同に医師はいなかったので、医師という職業がよくわからず、人の役に立ち、人を助ける仕事をしたいと思っていました。
―――学生時代のこともぜひお聞かせください。
学芸大附属の小・中学校に通っていました。教育熱心な校風で、みんな優秀。試験を受けたらすぐ順位が張り出されるような学校で、息が詰まる感じでした。叔母も教師でしたので、家でも学校でも「正しさ」に囲まれている。みんなと同じでいることが正解、という空気に違和感を持っていました。このまま学芸大附属にいて、大学へ行っても、教職はやりたくないなと思って、じゃあ出ようと思って高校で出てしまいました。
大学に繋がっているところなら、適当に勉強して少し頑張れば自分の進みたい学部に行けるだろうと思って、学習院に行ったんです。学習院の女子部。
ところが行ってみたらびっくりです。学芸大では試験の翌週には成績が貼り出されていたのに、学習院では答案が返ってこない(笑)。「え? どうなってるの?」って思いました。父母会があっても、話題は学習院の文化祭のことなどで、成績に関して父母会が開かれたことはなかったと思います。皆、のんびりしていました。
でもそのゆるさに救われたんですね。誰も比べないし、競争しない。あなたはあなたでいいという空気に、初めて呼吸ができる感じがしました。
―――空気がまったく違ったんですね。
はい。学芸大附属のころは常になにかに追われていました。でも学習院女子部では、家庭科でケーキを焼いたり、刺繍をしたり、のどかな雰囲気でした。学習院の生徒は、お嬢様が多く、自宅では、何もさせてもらえない方が多いので、学校の授業で、何かを作ることなどがあると、皆さん張り切って楽しそうに作られました。そういうこともあり、「あなたは食べる専門でいいのよ」って言われて、本当に食べてばかりいました。それがすごく幸せだったんです。競争しないで笑うという経験。
―――その……ご家庭は厳しかったんですか?
無言のプレッシャーはありましたが、実際は厳しくはなかったと思います。母に、数学のことで教えてもらったことは、一度もありません。もちろん、聞かなかったからですが、問題を訊くことで、こんなこともわからないのかと値踏みされたくなかったからだと思います。
そんな母や叔母から、「お茶の水女子大を出て教職に」と勧められたのですが、「絶対いや!」と。あれは私の最初の反抗でしたね。母には「あなたって本当にわがままね」と言われましたが、自分では「自分の道をちゃんと選んだ」と感じていました。
わがままといえば、万年筆で数学の答案を書いて先生に怒られたこともありました。肩が凝るから、という理由で、数学の試験で。そうしたら先生に、「万年筆で書くやつなんて見たことない!」って怒られました(笑)。でもそれに「手が疲れるからこれが一番いいんです」って言い返した記憶があります。扱いにくい生徒だったと思います。でも、そうやって自分の思いを大事にしていたんだと思います。
―――門馬先生らしさ、でしょうか。
そうかもしれません。私には姉が一人います。姉はピアノがとても上手だったんです。私もピアノをやっていたんですが、発表会の前に燃え尽きちゃうタイプでした。いつも練習ではうまく弾けるのに、本番になるとピークを越えてしまう。
姉のほうがのんびり屋で、タッチが柔らかいのに対し、私は勝ち気。姉は普段怠けているのに、発表会にはちゃんとピークを合わせてくる。姉の演奏を聴くと、かなわないと思ってしまう。「同じことやってもしょうがないな」と思いました。結局ピアノはやめることになりました。
あの頃は、姉のように音楽で表現するのではなく、自分の表現を探していたんだと思います。本を読んだり、写真を撮ったり、舞台を観たり、文章を書いたり、いろんなことをしてみました。何者でもなかったけれど、あの空白の時間が、あとになって大きな意味を持ちました。
―――空白の時間ですか。
はい。何もしていないようで、心が一番育つ時間でした。あの静けさがあったから、のちに病気をしたときも、自分の中に戻ることができた。外に答えを求めず、自分の呼吸を聴けるようになった。
振り返ると、あの頃の空白が私の人生の土台になっている気がします。
<医者の芽>
―――結局は、お茶の水女子大を選ばずに。
はい。勉強の中では、数学が一番好きでした。高3でも週7時間くらい数学の授業を取って。数学の教師は、数学科に行くものと思っていたようです。最終的に、数学科には行かない、医学部に行きたいと話をしたとき、それならそうと言ってくれれば、勉強も教え方があったのに、と言われました。受験直前まで親にも話をしていなかったのですが、受験を知った友人は、受験の厳しさも知らないのに、「貴方なら合格するわ」などと、簡単に言ってました。
ありがたいことに、浪人することもなく、無事に北里大学に合格しました。入学してわかったことですが、女性は1割しかいませんでした。ほとんど男子校のような雰囲気でしたね。
ただ、最初のうちは普通に通っていましたが、だんだん体調がおかしくなってきたんです。最初は「ちょっと疲れてるのかな」くらいに思っていたんですけれど、食べても食べても痩せていく。鏡を見ると、目がギラギラして、心臓がバクバク。これはおかしいな、と思ったら、バセドウ病でした。
―――兆候は前からあったんでしょうか。
そうなんです。大学受験が終わってすぐのころ、母が昔お世話になった医師のところへ挨拶に伺いました。その先生がふと、「久美ちゃん、甲状腺がちょっと大きいんじゃない」と言われました。
たまたまその先生が、甲状腺の専門医だったんですよ。でもそのときはまだピンと来ていなくて、「そうですか」くらいで終わってしまい、そのまま大学生活に入ったんですが、講義や実習がはじまったころから、体調が急に悪化していきました。
確かに大学は遠く、2時間以上かけて通学していました。疲れやすく、動悸もひどくて、階段を上がるのもつらい。手も震えるし、夜は眠れない。心がそわそわして、落ち着かない状態でした。
最初の一学期が終わるころには、もう一人で買い物にも行けないくらいでした。夏休みになっても,外に出て一箇所買い物をしたら、もうくたびれて帰る。
「なんか変だね」と言いながらも、「大学って遠いから疲れるんだ」なんて思っていたんですけれど、実際は違いました。夏休み明けに学校に行きましたが、朝履いていた靴が帰りには履けず、下肢のむくみと頻脈で動けなくなりました。病院に行ったら「バセドウ病です」。それで、すぐに絶対安静を命じられました。
―――急に、という感じですね。
はい。あれは驚きました。けれど、診断がついた瞬間、心がスッと冷静になったのを覚えています。「そうか、だからこんなに息が苦しかったのか」と。大学が遠いせいじゃなかったんですね。当時はまだ病気の知識もなかったので、身体の変化を「性格」とか「気力」の問題として処理していたんです。
バセドウ病診断時に、状況が悪かったため、医師から絶対安静が言い渡され、初めて、両親が大学の近くに下宿を探し、親元から離れて暮らし始めました。少し動くと、脈拍数が120から180くらいになるため、診断当初1~2週間くらいは、家に籠るような感じでした。
これからやっていけるのかなとも思いましたが、同級生にめぐまれました。授業のノートは運んでくれましたし、学校への送り迎えもしてくれ、温かく面倒を見てもらったおかげで、留年することもなく、順調に進学できました。
そういえば、甲状腺機能亢進症のときは、苦しいときもありますが、やる気は十分でした。妙に頭が冴える時間帯もあって、夜中に一気に勉強したりする。逆に、薬を飲むと楽にはなりますが、やる気はなくなります。皆が勉強している横で、ポップコーンを炒めたり、おにぎりをにぎったりしていました。留年しなくてよかったです。
あの不安定な日々のなかで、自分の「医者としての芽」が生えていたような気もします。
―――医者の芽ですか。
自分が患者になったことで、「病を抱えるとはどういうことか」を、身をもって知ったんです。健康でいることが、どれだけ当たり前じゃないかを痛感しました。
体調が悪いときって、誰の言葉も、頭に入りません。正しいことよりも寄り添うことのほうがずっと大事なんだと、そのときはじめてわかりました。あれが、医者として、どのようにありたいかと思った最初の瞬間だったと思います。
―――ということは、それまでは、医者になるつもりはあんまり……
人を救う職業にあこがれてはいましたが、家が医者でもなかったので、どのような医師になりたいかということまでは、考えていませんでした。
大学受験までは、音楽も好きで、ピアノをやっていた関係もあり、もし、医学部に受からなかったら、翌年は「昼は薬学部、夜はピアノ科」を受験しようと思っていました。今思えば、若気の至りというか。それくらい、音楽も勉強もどちらも捨てきれなかったんですね。でも、北里に受かったことで、「ああ、これでピアノは終わりだな」と思いました。
―――ピアノを諦めることに、迷いはありませんでしたか。
不思議と、なかったです。たぶん、どこかで「これが自分の次の道なんだ」と感じていたのかもしれません。バセドウ病になって体が弱ったとき、ピアノを弾く力もなくなって、でも代わりに「人を観よう」という気持ちが強くなった。それが医者に繋がっていく最初の糸だったように思います。
―――ご自身でご病気を経験されたことで、人を観たいという気持ちがより強くなったんですね。
そうですね。病気って、単に臓器が悪いわけじゃない。その人の生活とか、考え方とか、心の動きが全部そこに出る。それを観ようと思ったら、身体の中だけじゃなく、「その人の時間」を観なくちゃいけない。そういう意味では、バセドウ病が私を「観察する人間」に変えてくれたと思っています。
病気をきっかけに医学の道を選んだというよりは、人を観るために医学を選んだ、という感じです。自分が病むことで、ようやく人間の弱さやあたたかさに気づけた。
あの時期は苦しかったけど、人生でいちばん、静かに深く学んだ時間でした。
<消化器内科医へ>
―――その後の進路はどのように決められたのでしょう。
医学部に入った後、手先はわりに器用と思っていたし、できれば外科系に入局したいと思っていました。しかし、外科系のポリクリでオペに入って貧血で倒れ、術場の床で寝かされ、婦人科系のポリクリでは回診で倒れ、抱えられながらナースステーションに戻され、そういったエピソードで、外科系からはいらないと言われました。それでもなんとか、体の中を見たいという望みがあり、内視鏡検査のある消化器内科を希望したところ、教授から来てもいいと言われました。
国家試験が終わり、同期の入局志望者たちと、合格したら皆で教授に挨拶に行く約束をしていました。ところが結局、誰もいなくて、一人で挨拶に行きました。
初期研修は、内科を3つに分けて、4か月ごとに回りました。いろいろな内科を回ると、どの科にもおもしろさがありました。循環器を回った時は勧誘もされましたが、なにか自分の特技がほしいと思い、消化器科から動くことはありませんでした。
―――1年目から消化器内科にいらっしゃったんですね。
そうですね。最初は、入局を希望した科からローテーションが始まりました。1年目に受け持った方の中にも、今も忘れない患者さんが何人もいらっしゃいます。
あるとき、食道静脈瘤で入院された患者さんの奥様に、「今日は元気であっても、突然様態が変わることもあります。次も同じように話ができるとは限りません。お見舞いから帰るときには、思い残すことがないように、十分にお話をし、一日一日を大切に面会してくださいね」と話しました。その日の夜に患者さんが吐血し、人事不省になった、ということがありました。奥様は「ああやって言ってもらってよかった」と言っておられました。「ムンテラ」の重要性を痛感したできごとでした。
またあるときは、消化管出血で来院され、緊急内視鏡検査で胃潰瘍からの出血と診断されて、入院された方がいらっしゃいました。他のチームが見ていた患者さんですが、内視鏡検査の時点では血は止まっており、貧血の程度も強くなかったので、輸血・H2ブロッカーで経過を見ていたのですが、翌朝、検査に行こうとして歩いた直後にベッドサイドで倒れ、亡くなられました。解剖をさせていただくと、胃の中は血液で充満していました。ご家族は、「良性疾患でも、亡くなるんですか」とおっしゃっていました。
一つひとつの判断の難しい症例を経験して、もっといろいろな経験を積み重ねないと、一人前にはなれないなと痛感しました
―――濃密な1年目だったんですね。
その後、2年目は国立大蔵病院、3年目には大学に戻って、5年目には病棟医長として病棟を死守していました(笑)。この頃までは、一つの仕事に集中するのではなく、幅広く消化器内科の仕事をやっていました。
5年目が終わったら、やっと自分のやりたいことができるかな、と思っていましたが、ちょうどその頃、駒込病院消化器内科の田島先生から人がほしいとの要望があり、駒込病院へ出向することになりました。そこで幅広く、上部内視鏡検査と消化管造影検査、大腸内視鏡検査と大腸造影検査の4つを行うことになりました。その1年後に、食道外科医の吉田操先生がこられ、食道の内視鏡治療に誘われた、というわけです。
<人を観る>
―――Q&Aをお伺いする中でも感じたことなのですが、門馬先生のお話しは、単に「患者を治療する」ではなく、「その人を観る」という姿勢で一貫されていますね。。
そうですね。そして、患者さん一人を診るというよりも、家族をまるごと診るという感じです。ご本人が来られなくても、「奥さんは?」「お子さんはどうしてますか?」と尋ねています。
ある患者さんの奥様が、「主人の病気のことをどう子どもに話せばいいか」と相談に来られたことがありました。私は、「事実をやわらかく伝えましょう。嘘はつかなくていい」とお伝えしました。
病気の真ん中におられるのはもちろん患者さんですが、治療の周りには、生きる人たちの生活があります。そこを見失うと、医療がどんどん機会的になってしまいます。
また、ご高齢の男性の患者さんです。心臓も悪く、腎臓も片方しか機能していない状態で、食道がんが発見されました。食道がんは早期がんのため内視鏡治療を行いましたが、その後も、心臓の疾患で倒れ、最終的には腎臓が悪くなり、透析治療を受けるようになりました。いろいろな臓器に問題点はありますが、何とか平衡を保ちながら生活されておられ、いつも笑顔で、「先生、まだ飲んでるよ!」って(笑)話されています。食道がんの患者さんでは,アルコールを分解する酵素が足りないフラッシャーの症例が多く、飲酒はお勧めできませんが、高齢でもあり、全ての楽しみを奪うことは好ましくないため、ご家族とも相談しなから、経過をみています。治療臓器だけを見るのではなく、全身的な状況に配慮しながら診察することが大切です。
―――全身状態も考える
こんなこともありました。40歳代の男性の患者さんですが、発見時期の遅い進行食道がんで亡くなられました。当時、その方にはまだ小さなお子さんがいらっしゃいました。
亡くなられた後の説明で、患者さんの弟さんに、「お兄さんのお子さんはまだ小さいから、叔父さんとして、子たちが育つところを見守ってほしい」ということと、「兄弟発症の食道がんの方もおられるので、あなたも必ず検査を行ってほしい」と説明しました。直後の検査では、弟さんには病気は見られませんでした。
だいぶ時間が経過し、つい1年ほど前に、その方からご連絡をいただきました。「甥御さんは大きくなりましたか、検査はしていますか?」と尋ねると、「覚えていてくれたのですか。感激です。甥御は成長し、大学も出て社会人になりました」と話されました。ただ、弟さんご自身は、最近検査を行っていないこともあって、心配になり、ご連絡をくださったとのことでした。
早々に検査を行ったところ、早期食道がんが発見されたため、内視鏡で治療を行いました。もちろん早期がんのため、予後に問題がありませんし、治療後1年目の経過観察でも問題はありませんでした。
―――いやあ……すごいですね。
家族を診るって、こういうことなんです。一人を通して人生の輪がつながっていく。医療って、本当はそういう「連続する物語」なんですよね。
―――医師冥利に尽きるようなご経験かと思います。門馬先生にとって、医師として一番の喜びは、どんな瞬間に感じられますか?
やっぱり、「また来ました」と言ってもらえることですね。病気が治ったから終わり、ではなく、「先生のところなら安心」と思ってもらえること。それが何よりの喜びです。
ありがたいことに、一度診た患者さんはほとんど離れません。名古屋にいる患者さんから、「吐血しました。これから行っていいですか?」と電話がかかってきたこともあります。「ダメです! 今すぐ近くの病院に行ってください!」って、慌てて止めましたけど(笑)。私が頼りたくなる存在であることはうれしいです。
信頼というのは、病気を診るだけでは得られません。その人の人生を一緒に歩む覚悟があって、初めて生まれるものだと思います。
―――医療=治すこと、だけではないんですね。
そうですね。医療は、「生きている人の時間を支えるもの」です。その人がどんな仕事をして、どんな家族と過ごして、どんなふうに笑ってきたのか。そこを含めて、「その人」です。
―――さきほど、インタビューを始める前にちょっとうかがった、お母さんの話も印象的でした。
母が検査を受けて帰ってきたとき、「三本も採血されたのに、『異常なし』の一言だけだった!」と怒っていたんです。
医師にとって「異常なし」は安心のサインかもしれませんが、患者からすると、何をどう調べられたのかがわからない。「医療者の安心」と、「患者の安心」は違うんだと気付かされました。
だから、私は結果を伝えるとき、「この数値はこういう意味で正常」、「この項目はこういう理由で問題ない」と、必ず説明します。時間はかかりますが、その瞬間に患者さんの顔がほっと緩む。言葉一つで、人は癒やされるんですよね。
―――言葉の医療ですか。
ええ。数字の裏にある生活を一緒に考えるようにしています。
今いる検診の現場では、一日に何十人にもお会いしますが、結果を渡すだけでは終わりません。 忙しい外来で、「異常なし」とだけ書けば、数秒で終わります。言う医師の側は安心します。けれど、聞く側の患者さんには何も残りません。「どこをどう調べて、何が大丈夫だったのか」を知りたいですよね。それを伝えることは、医学的な義務というより、人としての礼儀なんですよ。患者さんの身体を預かるということは、人生の一部を預かるということ。だからこそ、説明の言葉にはものすごく気を遣います。単に「異常なし」ではなく、たとえば「血液の炎症反応はなく、腎臓も問題なし。少しコレステロールが上がりかけているけれど、食生活を整えれば大丈夫」と伝えれば、患者さんは自分の身体を知ることができます。それが次の行動につながるんです。
結果の紙を見ながら、「この数値が少し高いですね」「こういう生活習慣はありますか?」と尋ねる。そうすると、「実はお酒が多くて」とか、「夜勤が多いんです」と、皆さんぽつぽつ話してくれます。数字の背後には必ず生活があります。そこを聞き取らないと、本当の予防にはなりません。
診療では、仕事の話、家の話、趣味の話、なんでも出てきます。たとえばお酒好きな患者さんなら、「量を減らしましょうね」と言うだけじゃなくて、「晩酌が楽しいのはわかるから、せめて週のうち何日は休肝日にしてください」と話す。一方的に制限をかけるより、一緒に考える医療が大切だと思っています。
そして、もう一つ大切なのは、声かけですね。たとえば触診で「甲状腺少し腫れていますね」というだけで、その方が専門医を受診し、早期のがんが見つかることもある。小さな気づきで人の未来が変わります。
<その人どおり>
―――門馬先生のお話から感じ取れる「哲学」のようなものにとても惹かれます。先生が医師として、あるいは人として、大切にされていることはなんでしょうか。
私はいつも、「医療は人の時間を扱う仕事だ」と思っています。病気を治すことはもちろん大事です。でも、それ以上に、その人がどう生きてきたか、どう生きようとしているか、そこに敬意を払うことが医療の出発点だと思うんです。私たちは病名や検査値に引っ張られがちです。でもその数字の向こうに人生があります。家族があり、仕事があり、思い出がある。そこに想像力を働かせられるかどうかで、医療の深さは決まると感じます。
「異常なし」についてもそうですね。採血結果を渡すときに、たとえば「炎症反応はありません」「貧血もありません「腎機能も正常です」、これらを一つずつ言葉にする。そうすると、その間に患者さんが何度もうなずくんです。「異常なし」だけでは、そのうなずきは生まれません。医療って、数字の読み上げではなく、人の納得を紡ぐ対話なんです。
―――門馬先生の医療には、「社会の中で守られない人」への視点も感じるように思います。
ええ。私は長く消化器がんや検診の現場にいて、さまざまな方に出会いました。仕事柄、夜勤続きで生活が乱れる人や、家族を支えるために自分の体を後回しにしてしまう人。「忙しいから検査はまた今度」と言っているうちに、進行がんが見つかってしまう人。そういう現実を見ると、「自己責任」という言葉がいかに無力かわかります。
誰だって、守られるべき事情があります。だから私は、「病院に来なかった人」を責めません。でも、来られた瞬間から、その人の人生を支えます。
―――来なかったことを責めるのではなく、来た瞬間から支える。
そうです。医療というのは、どの地点からでも始められるものなんです。遅いとか早いとかじゃない。今、眼の前に来てくれたという事実が、始まりの合図です。
私はずっと、「病気を診るな、人を診ろ」と言われ続けていました。でも実際に現場に立ってみると、それがどれほど難しいか痛感します。データも大事、ガイドラインも大事。けれど、それを「人」にどう当てはめるかが一番難しいですね。
たとえば、同じ病名でも、その人が一人暮らしか、家族と同居か、仕事を続けたいかで、治療方針が変わることがあります。 「教科書通り」は安心かもしれないけれど、「その人どおり」を探すのが本当の医療ではないでしょうか。
―――その人どおり! いい言葉ですね。
ありがとうございます。私は患者さんを「ケース」とは言いません。一人ひとりに物語がある。たとえば、検診で偶然見つかった早期がんの人が「もっと早く来ればよかった」と言うとき、私は「いま来られたから間に合ったんですよ」と返します。どんな出会いにも、「いま」という最良のタイミングがあると思います。
―――「医療と社会をつなぐ言葉」は、門馬先生のご活動の大きなテーマではないかと思います。
はい。医療の中で使っている言葉って、専門的で、外から見ると壁のように感じられることがありますね。でも本当は、もっと開かれたものであるべきなんです。 「がん」や「死」という言葉も、怖いものではなく、生きることの一部として語れる社会になってほしい。
医療の外に向かって、やさしく翻訳していくこと。それが、私たち医療者の新しい使命だと思っています。難しいことを難しいままま伝えるのは、説明ではなく自己満足です。患者さんが納得して、家族が理解して、はじめて医療は完結すると思います。
<思いやりの連鎖>
―――医師としての役割と、チームとの関係についてはどう考えておられますか。
チームの中では、医師が主導することが多いですが、現場の本当の力は「いかに気づくか」にあると思います。看護師さんの一言、技師さんの違和感、受付の方の「今日ちょっと顔色が違いますね」―そういう観察が、命を救うこともあります。
だから私は、医療チームの人たちの言葉を大事にしています。チーム医療は、技術の集合体ではなく「思いやりの連鎖」です。
―――思いやりの連鎖、とても素敵です。
ありがとうございます。私は、自分が病気をした経験から、支えてもらう側の気持ちを知りました。だからこそ、医療者として支えるときにも、対等な立場でいたいんです。助ける/助けられるではなく、支え合う。
医療って、結局は「信頼」だと思うんです。科学でも制度でもなく、人と人との信頼。だから私は、これからも「説明し続ける医者」、「聴き続ける医者」でありたいと思っています。人の時間を大切にする医療を、これからも紡いでいきたいですね。
<人間の心には、揺れる時間がある>
―――これからの医療をどう見ておられますか。
いまの医療は本当に高度になりました。画像診断もAIも進歩して、数値やアルゴリズムが判断を支えてくれます。けれど私は、その便利さの裏で、人が人を観るという当たり前の感覚が少しずつ薄れていっているように感じます。
医療は技術であると同時に、文化です。文化というのは、人が人を大切にしようとする心のあり方です。それを失ったら、どれだけ医療が進んでも、心は置き去りになります。だから私は、どんなに忙しくても、患者さんの目を見て話をします。そこにこそ、医療の原点があると思っています。
診断や画像判定のように、AIが得意な領域は、これからますます増えるでしょう。でも、AIには、迷うことができません。一方、人間の心には、「揺れる時間」がある。患者さんの言葉に迷い、家族の涙に迷い、葛藤しながら決断する。そこに、人間が医療を担う意味があると思います。
駒込病院時代、10歳代の全結腸型の潰瘍性大腸炎の方がいらっしゃいました。二人姉妹の長女で、大学受験がうまくいかなかったあとに病気を発症しました。入院治療で状態は改善し、退院されたのですが、精神的な状況が安定せず、退院後も毎日、病院に電話がかかってきました。
時間の経過とともに精神的にも徐々に安定し、やっとアルバイトできるくらいに回復しました。病院で勤務していると、ある日の夕方、また電話がかかってきました。電話に出ると、「妊娠しました」と聞かされました。絶対に産みたい、という強い要望でした。患者さん本人・ご主人、ご家族と何度も話し合い、「お母さんと赤ちゃんの両方を守る」道を探しました。妊娠7か月以降は入院を継続しながら、築地にあった産院と連絡を取り合いました。産院に転送する救急車の中で破水されましたが、無事に出産されました。もちろんお子様にも問題はありませんでした。しかし、潰瘍性大腸炎の状況がなかなか安定せず、出産後3年間は退院できませんでした。本当にこれでよかったのか、と悩むこともありましたが、3歳以降は親子3人で仲良く生活され、長期にわたる入院はありませんでした。その患者さんは文章を書くのが大変上手で、長い入院生活を続けながら、ご自身の経験を文章にまとめ、医師との対話の記録として投稿されました。それで全国的な賞の最優秀賞を受賞され、私もある医師会の先生などからお褒めの言葉をいただきました。
―――実にむずかしいご判断だったと思いますが、すごいですね。
正解がひとつではないとき、私たちも迷います。けれど、その迷いこそが人間らしさであり、患者さんに寄り添う力になります。患者さんの姿を見て、「医療は人の強さと希望をつなぐ仕事だ」と実感しました。
私はAIに仕事を奪われるとは思っていません。むしろ、AIが担えない「心のゆらぎ」こそが、これからの医療の中心になると思うんです。
<最後に残るのは人の温度>
―――若手の育成にも、門馬先生は深く関わってこられています。
若い先生方といっしょに働くことは、本当に刺激的です。ただ、私は、「育てる」というより、「共に
歩む」という感覚です。若手にはよく、「私が正しいとは限らないから、自分の目で確かめてね」と言います。
医療って、上から下に知識を流すだけでは成り立たない。患者さんを前にしたときの直感や違和感、そういう感覚は、教科書では伝えられないんです。だから、経験を共有しながら、一緒に悩む。若い先生が「自分も悩んでいいんだ」と思える環境をつくりたいと思っています。
現場こそが最高の教科書です。患者さんが語る一言の中に、何十冊分の学びが詰まっていることもあります。若手の先生方には、「質問を恐れないで」といつも伝えています。質問できる勇気は、考えている証拠ですからね。
―――これから医療を志す若い人たちに、メッセージをいただけますでしょうか。
医療は、きれいごとではありません。苦しいこと、報われないこともたくさんあります。けれど、人の生き死にに立ち会えるというのは、ものすごく尊い仕事なんです。若い人たちには、どうか、「人の物語を聞く力」を持ってほしい。データや所見の向こうに、その人の人生があります。
言葉にできない痛みを感じ取るには、時間と心の余白が必要です。だからこそ、忙しい中でも立ち止まる勇気を持ってほしい。医療は、走り続けるだけでは見えない景色があります。ときには手を止めて、患者さんの息遣いを感じる。それが、医師としての本当の成長につながると思います。
これからの時代、病気は治すだけではなく、共に生きるものになっていくと思います。高齢化が進み、慢性疾患が増える中で、完治よりも「支え合う」という関係が大事になる。私は、そこにこそ医療の未来があると思うんです。
病気を通して、人と人とが出会い、理解し、支え合う。そのつながりが社会を少しずつ温かくしていく。医療は、そのための接点なんです。だから、どんなに技術が発達しても、最後に残るのは人の温度だと信じています。
これからの医療が、「思いやりの連鎖が続く社会」になったらいいですね。一人の患者さんを支えると、その家族が救われ、家族が支え合うと、次の世代も優しくなる。そういう連鎖が医療から広がっていけば、社会全体が少しずつ変わると思います。
私自身、これまで多くの人に支えられてきました。恩返しというより、その温かさを次につなげたい。私がしてもらったように、誰かを支える。その循環を、これからも続けていけたらと思っています。
―――先生の言葉一つ一つが、医療の希望そのものですね。
ありがとうございます。医療は人の命を扱う仕事だけれど、同時に、人の希望を扱う仕事でもあります。患者さんが「生きててよかった」と思える瞬間を一つでも増やすこと。それが私たちの使命だと思っています。どんなに時代が変わっても、「人の時間を支える医療を」。この言葉を大事にしていきたいと思っています。

