『がんユニ』新聞記者・岩本さんとのお話。

※毎週火曜日、書籍『がんユニバーシティ』で行ったインタビューの、「編集中の原稿」を全文公開します。書籍版ではここから大幅に編集をし、各先生方からの寄稿をはじめとするたくさんの文章をコラム的に散りばめて、一冊の本にまとめます。このブログでは、インタビュアー(市原)が興奮し続けた「生の雰囲気」、編集前の原稿だけが持つ猛烈な(ちょっと読みづらい?笑)エネルギーを味わっていただきたいと思います。

講師:         岩本 進 先生(北海道新聞編集局くらし報道部)

テーマ:       「がんを取材する立場から」

学期:           2年後期

Dialogue

<報道する立場にとっての「がん」とは>

―――本日はお時間をいただきありがとうございます。本書は「がんについての本」ですが、私一人の目線をたよりに書くのではなく、いろいろな方々にお話しを聞いて、それぞれ違う視点から見えているものを集めてみよう、と考えて企画を進めています。

 医療者以外の方にも話を聞くんですね。さまざまな視点から「がん」を見ることは、すごくよいことだと思います。

―――ありがとうございます。最初は医療者ばかりに話をうかがっていたのですが、あるときふと、「これは偏っているなあ」と思いました。そんな折、国立がん研究センターの若尾文彦先生にその話をしましたら、「私がその偏りをなんとかするために手伝ってもらっている人から話を聞いたらいいんじゃないか」とご提案をいただき、なるほど、と思って岩本さんをご紹介いただきました。

さっそくですが、岩本さんの目からご覧になった「がん」は、医療従事者がみる「がん」と比べて、違いがありますでしょうか。

医師の方々にとって、「がん」というのは一つの病気であり、正確に診断して、適切な治療を提供する。残念ながら治せない場合もありますが、「治す」ことに全力を注ぐ。「がんの克服」を目指します。

一方、私は、まず立場としては、がんの患者・経験者ではありません。がん患者の家族でも遺族でもありません。新聞記者として、がんになった、がんを体験した、多くの方と接しています。

患者さんたちと話しているとみなさん、がんという病気のことだけではなく、毎日の生活とか、ご家族のこととか、ご自身の生き方とか、人によっては最期のあり方まで、考えられておられます。

言わば、人生そのものなんですね。

すると、がんを克服するには、もちろん医療の力、医学の力が必要です。不可欠です。ですが、そのほかに、社会の力とでも言うのでしょうか。患者さんやご家族が生きることをを支える制度や仕組み、周囲の温かな目や支援も必要だと思うのです。患者さんやご家族は、医療だけではない、さまざまな社会的な問題にも直面していると思うのです。

 がんの医療や研究に携わる方には、がんの正しい知識や情報を伝え、最新も治療をどんどん進めていっていただきたい。一方、がん患者さんやご家族を支える社会の仕組みとか制度といったものも、患者さんらにとってよいものにしていかなければならない、と思うのです。

 今の私は、健康や命が脅かされるような病気になってしまった方が、病気になってしまっても、安心して暮らせる北海道、そして社会をつくるために、一人の新聞記者として活動しています。がんになった患者さんとご家族が、安心して暮らせる社会づくりに、微力だと思いますがか、ほんの少しでも役に立ちたいと思っています。

―――岩本さんは北海道新聞社に記者としてお勤めですが、がんの患者会などにも長く関わられていますね。

はい。私が最初にがんの患者会と関わりはじめたのは何かというと、患者会の例会とか、患者会が開く講演会といった催しの、お知らせ記事を書くことだったんです。

「いつ、どこで、誰が、患者会や講演会を開く。参加希望者は…、問い合わせ先は…」という、新聞紙面ではわずか十数行ほどの、小さな、小さな記事です。

そんな小さな記事を作る過程で、どこに何の患者会があるか、どうのような方が集い、どんな活動をしているのか、その分野にはどんな先生がいて、患者さんたちのサポートしているのかといった、実にさまざまなことがわかってきます。

そして、記事になってもならなくていいと思いながら、実際に患者会や講演会に足を運んで、オブザーバーとして参加させていただいていると、、患者さんやご家族ががいま何に悩んでいるのか、どんなことに困っているのか、何を求めているのかが、手に取るようにわかってきました。

北海道にもさまざまながんの患者会がありますよ。北海道内の活動する患者会が横のつながりをつくろうと、患者さんたちの小さな声を集めて大きな声にして社会に届けようと設立した「北海道がん患者連絡会」も活動しています。およそ30の患者会が加入しています。

患者本位のがん医療や患者さんたちの声をがん対策に反映させるアドボカシー(政策提言)活動、がんになった仲間を支えるピアサポーターの養成、子どもたちの学校でがんという病気や命の大切さを伝えるがん教育を担う患者講師の養成などに取り組んでいます。

患者さんたち当事者を中心にして、がんを治す医療者の方、がん対策に取り組む行政の方、がんに携わるいろいろな人たちが手をつないで患者さんたちを支え、、そしてメディアがその活動を伝えて広げていく…というのが、一つの形ではないか、と私は思っています。

<勉強会のために取材を組んだ>

 かつて国立がん研究センターが、記者やライターを対象に「メディアセミナー」という勉強会を開いていた時期があります。がんの医療者・研究者が伝えたいがんの情報を、どうしたらら市民に正しく届けられるか。メディアは数多あるがんの情報の中から何をどう報じたらよいか、医療者・研究者とメディアと一緒に考える、そんな趣旨の勉強会でした。2007年度に始まったと記憶しています。東京・築地の国立がん研究センターで、月に1回のペースで、年に10回くらい開いていました。

―――かなり多いですね。

 2008年度かな、そこに私も1年間、参加しました。その後も20年1月にセミナーを閉じるまでちょくちょく参加しました。毎回、北海道から東京に通って。当時は今みたいに、Zoomのようなオンライン会議システムなんてありませんでしたからね。平日の夜、2時間ほどの勉強会でした。

 これは今だから言いますが、東京で医療の取材の予定を2本、3本と立てて、1泊2日で出張で行きました。これとこれを東京で取材します、と。初日に1、2本取材して、夜の勉強会に参加する。そして、次の日もまた1、2本取材して北海道に帰る。詰めれば3本の記事が書けました。勉強会のおかげですね(笑)。

 まだ全国がん登録が始まる前でした。がん登録とは何か、とか学んだかな。論文の読み方やどんな論文を記事したらよいかも、教えてもらいました。「基礎実験段階の論文は記事にしない」とか。

―――マウス相手の研究を、あたかも人に効くように書いてはいけない、とかでしょうか。

 そうですね。実験動物で得た結果が、はたして人間だったらどうなるかはわからない。本当にヒトの薬になるか、確率にまだ低いですよね。やはり、この段階で患者さんに過度な期待を持たせてはいけない、と思います。

 ―――なるほど、いわゆるサイエンスリテラシーみたいなものを共有していたんですね。

 北海道新聞は、全国紙のような「医療部」とか「科学部」とか、医療を専門に取材し発信する部署はありません。ですから、医療や科学の取材のノウハウを教えてもらったことがなかった。お手本や先生も身近にいませんでした。自分で医療関連の記事の取材・発信しながら、一つ一つ自己流で身につけてきました。その意味で、この勉強会はとても新鮮だったし、ありがたかったですね。勉強会に行って、東京の専門記者さんたちの姿を見て、やり方や考え方をたくさん学ばせていただいたのです。

 ―――では、岩本さんの前に医療関連の記事を書かれていた方というのは、どうなさっていたんでしょうか?

 札幌本社の当時の社会部(現・報道センター)にも生活部(現・くらし報道部)にも医療を担当する記者はいました。今もいます。私もその一人です。

でも、大きな事故や災害、医療以外に取り組まなければならない懸案事項、選挙などがあれば、そちらも取材しなければならない。一方、北海道外の医療の話題やニュースは通信者が配信されてきます。

私どもは、記者として何でもしなければならない。一つの分野、例えば医療だけに、じっくりと腰を据えている時間と余裕があまりありません。私も、同じ状況ですよ。今でもそうなんです。。

 ―――そんな中、岩本さんはわりと医療の方に肩入れをされていった。

 医療を一つの専門分野にしたいな、と思って、やってきました。やっています。

<楽しいじゃないですか、ごめんなさい>

―――そもそも、新聞記者になられてから、どういう経緯で医療を担当されるようになったのでしょう。

新聞社の記者と言えば、政治記者になりたいとか、経済記者になりたいとか、あるいは海外特派員になりたいとか、さまざまな方がいます。

私はもともと、社会部に行きたいと考えていました。人間の喜怒哀楽というか、そういうドラマを描きたいな、と考えていました。

1991年に北海道新聞に入社しました。最初の赴任地は函館支社報道部で、そこに6年半いました。警察、市政、経済、遊軍と一通り経験しました。そう、高校野球の取材も経験しましたね。

1997年秋、念願の本社の社会部に異動しました。最初の担当は教育でした。当時は「学級崩壊」という言葉がありましたね。教育ですから、大学の担当も兼ねるわけです。北海道大学や札幌医科大学なども。だから、医療のプレスリリースや情報が入ってきます。それが医療取材の第一歩でした。

当時、北海道大学では、小児科で「遺伝子治療」が実施された後、患者さんも退院されていて、その後のフォローをしている段階でした。その記者会見を取材した記憶がありますね。

―――アデノシンデアミナーゼ(ADA)欠損症に対する遺伝子治療ですね。学生時代にその話を習いました。

そうです。そして当時、北海道大学ではアメリカから藤堂省さんが第一外科の教授に着任され、北大病院で臓器移植を行う準備をしていました。1997年と言えばちょうど、臓器移植に限って脳死を人の「死」と認めた「臓器移植法」が成立、施行された年です。

北海道大学は近い将来に「脳死肝移植」を実施する、その前に「生体肝移植」の実施を予定していると、前任者からの引き継ぎで聞いていました。でも、当時の私は「セイタイカンイショクー」と言われても、全然わからなくて。そんな状態でした。

 

―――藤堂先生。九州男児という感じの。

 はい、そうですね。

 

―――学生に向かって、大きくこうやって、手を振るんですよね。「∞」みたいなかたちで。

そう。大柄な。ヤンデル先生は北海道大学に何年に入学したのですか。

―――1997年なんです。

じゃあちょうど、私が札幌本社の社会部に異動した年ですね。

異動した9月、私がまだ藤堂さんに新しい担当者としてあいさつにうかがう前に、NHKの昼のニュースで抜かれたんですよ。「北大病院が生体肝移植を行った」と。忘れもしない9月12日でした。移植は9月3日に行われていました。

当時は夕刊があり、夕刊に記事を入れきゃいけないんですが。とにかく北海道大学病院に飛んでいきました。でも、藤堂さんの顔もわからない。第一外科の医局がどこにあるすら知らない。ようやくたどり着いても、藤堂さんらが話していることがよく理解できない。ちんぷんかんぷんで。情けなくて。新聞社に戻ったら、先輩方が記事を作ってくれていて、もう夕刊ができあがっていました。それが、医療取材の出発点でした。

やがて、だんだんと医療の取材がメインになっったというか、そちらの方へと傾いていきました。

―――医療の話は、しんどくなかったですか。

楽しいじゃないですか、ごめんなさい、語弊がありますね。知らない世界ですし、人の生と死に関わる大切な分野ですし、のめり込んでしまったのかもしれませんね。

ですから、しんどうと思ったことはありません。でも、ものすごく勉強しなければならない。医師という仕事は大変なんだな、と思いました。

当時、藤堂さんのところで、2週に1回だったかな、毎週だったかな、メディア向けの勉強会があったんですね。第一外科の医局で。勉強会が終わると、医局のカンファレンスが始まるんです。私たち記者も、カンファレンスにオブザーバーとして参加することが許されていました。もちろん、そこで聞いたことは、個人情報も含め絶対に口外しない、書かないという約束があったと思います。今だったら難しいかもしれませんね。

―――えっ、医師が患者さんの検討をするカンファレンスですか。

はい。主に、これから肝臓の一部を提供するドナー候補の方と移植を受ける患者さんに関するカンファレンスですね。患者さんの肝臓がどのような状態なのか、ドナー候補の肝臓はどのくらい提供できるのか、とか。生体肝移植は、家族間であってもドナーは自発的な意思でなければ提供が認められません。逆に、移植患者は、移植後いただいた肝臓を大事にできるか、免疫抑制剤をのみ続けることができるのかが、問われます。そういった話を全部聞いていました。臓器提供と移植は、移植医以外にも多くの人が携わっていることを目の当たりにしました。

―――カンファレンスでは主に医者側の論理が語られると思いますが、患者側や第三者の目線として、なにか違いを感じましたか。

 いえ。そのころはまだ医療取材をはじめたばかりで、何もかにもが新しいことばかり。患者側の目線とか、まだ考える余裕がなかったと思います。私の中で、そういう考えがまだ醸成されていなかったかもしれません。

―――醸成されていない。なるほど。

 まだ駆け出しでした。移植という新しい医療があって、その医療が目の前でこういうふうに進んでいくんだ、すごいなあ、と感心していました。

<どうして君たちは書かないんだ>

藤堂さんは「北海道を日本の移植医療の先進地域にしたい」という大きな志を持って、アメリカ・ピッツバーグ大学から北海道大学に赴任したと聞きました。当時は「大リーグの4番バッターが日本のチームに来た」というたとえ話も聞いた記憶もあります。いつも「光は北から、光は世界へ」と話していました。今でも覚えています。

―――「藤堂・古川体制」ですね。

はい、藤堂さんとピッツバーグ大で一緒に働いていた古川博之さんですね。藤堂さんに次いで北海道大学に来られました。後に旭川医科大学の外科の教授となり、病院長や副学長を歴任されました。

―――そんな方々が、医局でメディア向けの勉強会を。

各社一人ずつ参加していましたね。「日本に移植医療を定着させるためには、メディアの力が必要だ」とよく言われました。ですから、勉強会にしても、カンファレンスの参加にしても、移植医療について、まずは報じる私たちに「正しく理解してほしい」、そして「道民に発信してほしい」という思いがあったのだと思います。

当初は、北海道大学病院で生体肝移植が行われると1例ずつ、全て記事にしていました。大学の倫理委員会の承認を得て、移植手術を実施して、その後ドナーとレシピエントがどういう経過をたどったのか、逐一報じていました。

でも、藤堂さんは毎日移植の記事を出してほしい、というんです。ただ私たちは、何か新しい出来事がないと、ニュースでないと、なかなか書くことはできないのです。。

―――ああ、新しいできごとが。

「どうして君たちは移植医療を書かないんだ」「これからは移植医療だ」と、よく言われました。毎日は無理ですが、熱い気持ちがひしひしと伝わってきましたね。

でも、何例か重ねていくうちに、生体肝移植でも助けられない命があることも知りました。

あるとき、移植後の患者さんが亡くなったことがありました。勉強会に出ている記者たちのところに、すぐに連絡が来ました。

医局に飛んでいきました。藤堂さんは包み隠さず亡くなった事実を話してくれました。そして「ご家族の承諾が得られていないから、承諾がいただけるまで(報道するのは)待ってほしい」と言われました。デスクに報告すれば、おそらく「書け」と言われたのではないかと思います。私はすぐには報告しませんでした。

それは、藤堂さんとの関係を大事にするためではありません。亡くなった患者の家族の気持ちを考えたからです。その中には、肝臓を提供したご本人もいらっしゃる。その人たちの気持ちを考えるとね。いち早く知り得た事実を報じるのか、少し遅れても当事者の承諾を得てから報じるのか…。結局、各社とも後者を選びました。

そのときね、藤堂さんは、涙を流していました。一言「これも移植医療の現実なんです」と。医療は万能ではない、100%ではないということも痛感しました。

臓器移植法に基づく、北海道で初の脳死下の臓器提供があったのは、市立函館病院でした。2000年11月でした。全国で法的脳死判定は10例目、脳死臓器提供は9例目でした。私も札幌から函館に取材に行きました。当時の私が最も知りたかったことは、ご本人がどうして臓器を提供しようと思ったのか、ご家族がどんな思いで提供することを承諾したのか、なぜ承諾したのか、でした。ご家族はきっと心が揺れ動いたのではないか、と思いました。

脳死下の臓器提供の最初の頃は、マスコミが提供病院に大勢駆けつけて、現場はすごかったですよね。提供者の家族は病院から一步も外に出ることができない。報道する物は許可なく病院の中には入れない。

その後、函館で臓器を提供したドナーの家族が偶然、わかりました。連絡をして趣旨を話すと、取材を受けてくださりました。故人が生前に臓器提供の意思表示をした理由や、提供することを承諾・決断した当時の思い語ってくださった。それは連載記事にして発信しました。おそらく脳死ドナー家族が思いを語った記事は初めてだったと思います。

こういう経験を積み重ねながら、徐々に患者さんやご家族の方に目を向けるというか、当事者の話を頻繁に聞くようになったのかもしれませんね。

<人の生命力ってすごいんだな>

医療の取材を始める前と、始めてすぐの頃、個人的な出来事が二つありました。

ひとつは、私の片目が網膜剥離になったことです。新聞記者になって3年目、函館で勤務していたころです。

本州の病院で入院して、硝子体手術を6回受け、それでなんとか網膜がくっつき、剥離を治すことができました。以前と同じような、普通の生活ができるまでに回復しました。

でも、網膜剥離になった当初は、もう記者人生は終わりだ、と思いました。病院のベッドの上で、悪い方、悪い方へと考えてしまうんですね。

ところが、やがてその悲観は、希望へと変わるんです。

もしも片目が見えなくなったとしても、いまこうやってヤンデル先生と対面で話をしているように、相手の表情とか仕草とか、足音とか息づかいとかがわかれば、残った片目を含む五感をフルに活用すれば、書きたかった人の喜怒哀楽のドラマは書けないじゃないか、と。

入院中は再剥離と手術の繰り返しで、半年後にようやく退院することができました。その後、記者の仕事に再び戻ることだできたのです。

心が立ち直る力、私は目でしたが体が回復する力って、すごいと実感しました。

もう一つは、子どもが産まれたときに、2000年だったんですけれど、超低出生体重児だったんですね。体重が600グラムもなかった。それは、小さな、小さな赤ちゃんでした。

実は、その以前に、小さな赤ちゃんの取材をしていたんです。ある病院の新生児集中治療室(NICU)の医師のところに何度も足を運びました。

そして、一人の小さな赤ちゃんのことを記事にしました。ある先天性疾患の赤ちゃんで、NICUから退院して、自宅で家族と一緒の時間を過ごして、旅立った。わが子を亡くしてまだ間もない頃、お母さんが取材を受けてくれたんです。

お母さんは涙を流しながら、いろいろな話をしてくれました。私ももらい泣きしながら、その思いをノートに書き留めました。そして、その日のうちに記事を書きました。

そのとき、小さな赤ちゃんの取材で医師から低出生体重児の現状や治療、課題などをたくさん聞いていたんですね。医療の進歩で、小さく産まれた赤ちゃんが生存できるようになった。「後遺症なき生存」が課題だと聞きました。

そんな体験があって、自分の子どもが小さく産まれてNICUに入院することになった。仮死状態で生まれて、まだ自発呼吸はできないから、肺サーファクタントという薬を入れて、肺胞が開いて、呼吸ができた。声が出た。それから約半年間入院していました。正直、覚悟していた時期もありました。それでもなんとか持ちこたえて、幸いにも退院することができました。

そういう個人的な体験もあって、ああ、医療ってすごいなあと思いました。人の命に現場に携わる医療の仕事は、本当に大変なんだと思いました。一方で、いろいろな病気で苦しんでいる人、困っている人、悲しんでいる人もたくさんいることも知りました。

何よりも、人間の生命力ってすごいんだな、と息子をはじめ小さな赤ちゃんから教えられました。そういうことも読者や社会に伝えられたらいいなあ、と思った次第です。

<人生全部書いてくれ>

 ちょうど同じ時期、2000年頃だったと思います。、ある一人のがん患者さんが、新聞社を訪ねてきたんです。50代の、進行がんの男性患者さんでした。「私のがんとの生き様を、全部書いてほしい」と言うのですね。上司が私が呼び、その場で担当になりました。

 その男性に話を聞くと、治療などのがんの情報はなかなか入ってこない、どこにあるのかわからない、と。さらに、外国では使えている抗がん剤が日本ではまだ使えないん、などと訴えました。

―――ドラッグラグ。

 そうです。それからは、男性が入院している病室などを何度か訪ねて、お話を聞きました。当時、まだ新聞でがんの体験記はあまりなかったのではないか、と記憶しています。本で闘病記はあったかもしれないけれど、新聞記事で私は呼んだ記憶がなかった。

 でも、結論からと言うと、私はその男性の「がんと生きる全て」を、書くことができなかったんです。

 一人の人生の全てを抱えて取材し、発信することは、ものすごく重い。重くて抱えきれなかった、というのが正直な気持ちです。いや抱える勇気がなかったのかもしれまん。忙しい社会部の記者だから、その取材だけにだけにかわっているわけにもいかない、というのは言い訳ですね。

―――重かったんですね。

1本だけ、記事を書きました。その男性の呼びかけで、がん患者さんや家族、遺族と一緒に富士山を見に行こうというツアーを組んだんです。旅行会社の方や医療者の方に手伝ってもらって。患者や家族ら20数人が参加しました。「がんと生きる、心の旅」でしたか。私も同行させていただきまして、2泊3日で富士山に登りはしなかったけれぢ、壮大な富士山の姿を見てふもとまで行ったんです。

「心の旅」には医師も看護師さんも同行しました。。いろいろな患者さんやご家族がが参加していました。ある舌がんの患者さんは、人と話していても治療の影響でなかなか話が通じなくて、だんだんと語らなくなってしまった。でも、この旅に参加して、同じがんの患者さんとたくさん話をすることができた。「元気をいただいた」と話してくれました。旅の最中、行き帰りのバスや飛行機の中で、私はたくさんのがんの当事者からいっぱい話を聞きました。

 その後、「書いてほしい」と新聞社に来た男性患者さんは亡くなりました。葬儀に参列しましたが、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

―――記事を書いたのに、申し訳ない気持ちなんですか?

 なぜなら、「人生の全てを書いてほしい」と言われたのですから。

 その方が望んでいたのは、「私はがんになって、がんをめぐるさまざまなことが見えてきた。日本のがんの医療には、がん対策には、解決しなければならないいろいろな問題があるんだ。ことを私を題材にして多くの人に伝えてほしいれ」ということだったと思うのです。

 でも、当時の私にはできなかった。本当に申し訳ないし、葬儀にも行ったけれど、すぐにでも逃げ出したいくらいの気持ちでした。ごめんなさい、と。

これが、私のががんとの原点です。

だから、いつか必ずきちんと、がんと向き合おう。がんに関する記事を発信しよう。そう思っていたんです。医療や病気はどれも大事なんだけれども、その中でも、私にとってがんは特別なんですね。きちんと取り組まなければならないと。男性患者さんが残した、宿題になったんですよ。

<がん患者が実現させた>

 2005年に、大阪で「第1回がん患者大集会」という催しがあったんです(記事を見せる)。

―――「がん患者、想い集結。大阪で2000人集会。情報センター設立を」。

 あの頃、「がん難民」という言葉があり、社会問題になりました。正しい情報がわからない、国際的な標準治療が受けられない、治らなくても見放さないでほしい…。患者さんたちが声を上げ始めたのです。先ほどの、私が生き様を書けなかった、男性患者さんが話していたことが、当時の多くのがん患者さんたちが思っていたんですね。情報がないとか、薬が手に入らないとか。何が私に一番最適な治療法なのか、その治療はどこで受けることができるのか、がわからない。

 そういったがん患者さんたちが、あちこちで声を上げた。一つ一つの声は小さな力でしかないけれど、みんなで手を携えて大きな声にすれば、国などの行政や医療界、いや社会は動くかもしれない。

 当時、たしか20いくつかの患者会の共催で、全国から予定を上回る約2千人の患者さんや家族が集い、地域格差、未承認薬の解消、正しい情報の提供や相談体制の整備などについて話し合い、声を上げました。そういう集会が初めて開かれたんです。

 その大集会のスローガンが「がん難民! そんな言葉をなくしたい! 変えよう日本のがん医療 手をつなごう患者と家族たち」でした。患者大集会が開かれるという話を聞いて、私は「ああ、これだ」と思って、すぐに取材準備を始め、当日大阪の会場に行きました。

 かつてあの男性患者さんの願いにこたえることはできなかったけれど、この大集会がその願いの実現に少しでも近づけるきっかけになるのではないか、と思ったんです。

 大集会の最後には、会場にいた当時の厚生労働大臣、尾辻秀久さんだったと思うのですけれど、大臣に患者の声をしっかりと届けました、訴えました。

 日本のがん対策が動き始めた、一つの瞬間だったと思います。

 ―――一連のムーブメントが。

 そうです。そこからムーブメントが始まり、2006年の「がん対策基本法」が成立しました。大集会の翌年ですよね。翌07年にこの法律が施行され、その後に法に基づく国や都道府県のがん対策推進計画へとつながっていくわけです。

 がん対策基本法は、議員立法なんです。全国の患者さんたちの声に押されて、国会議員が動いてくれた。私は札幌にいたので報道でしか知りませんが、がん患者だった山本孝史議員が国会で演説し、法の成立を後押しました。

 がん患者さんたちの声が、多くの人たちを巻き込んで法律が誕生した。患者さんたちの力だと思います。。

 法律にどんなことが盛り込まれたのか。大事なことは、がんの政策を決める場に患者さんを参画させたことです。だから、国のがん対策協議会に患者委員が誕生し参加しています。都道府県の協議会にも、患者さんが入っていて、患者さんたちの声を届けています。

 医療政策を決定する場に、当事者である患者さんたちが参画することが、法律に初めて明記されました。がんが患者参画の先駆けであり、がん患者さんたち自身が、それを実現させたんです。

 ―――なるほど、若尾先生にもうかがった話ですが、患者側の参画というものがより詳しくわかりました。

 若尾さんは、国立がん研究センターにいて、正しいがん情報の提供や相談支の拡充などにずっと携わっています。私は、北海道という地域で取材・発信する一記者の立場で、がん情報の提供にちょこっと携わることになりました。

 先ほど、国立がん研究センター主催のメディア向け勉強会に出ていたということを話しました。それが縁だったのかどうか私にはよくわかりませんが、その後ある日突然、同センターの「がん情報サービス専門家パネル」の委員を仰せつかりました。

国が国民に正しいがん情報を届けるために、全国のがん診療連携拠点病院に「がん相談支援センター」をあります。一方、ウェブサイト「がん情報サービス」や各種の冊子などを作り患者や国民にがん情報を提供しています。

この、がん情報サービスを運営しているのが国立がん研究センターです。全国の医師らの協力で情報を作り、ウェブや冊子などで提供しています。「専門家パネル」は、これらの情報をどのように作ったらよいか、どうしたら必要とする人にタイムリーで届けられるか、など話し合う専門家の集まりでした。地方紙の、肩書きもない一記者がなぜか呼ばれることになりました。本当にびっくりしました。年に2~3回、東京で開かれる会議に出席し、意見を述べました。ほかのメンバーは、病院の院長や実務者、大学の教授、全国がん患者団体連合会の役員、全国紙の専門記者などでした。数年間、務めさせていただきました。

 おそらく私に求められていたのは、がん情報の「均てん化」をどうしたら実現できるのか、ではないかと思いました。例えば、北海道は広いので隅々までがんの情報が届いていない可能性があるんですよね。。東京だったら患者会もたくさんあるし、がん診療連携拠点病院やがん相談支援センターなど情報が入手できる機会がたくさんある。でも、北海道は拠点病院や相談支援センターがない地域もある。ウェブを利用できない方もいる。そういう視点が求められていたのかもしれません。

―――そこでは岩本さんは、若尾先生らが書かれた記事や原稿をチェックされたのでしょうか。

いえ。がん情報のサービスのあり方やコンテンツ作成の進め方、よりわかりやすく見やすくする工夫などについて、これまでの知見に基づいて意見を述べたりしました。、進め方について話しました。

<がんは特別ではないが、フロントである>

 最近の例では、高額療養費制度の見直しの問題。がんや難病の患者や家族の皆さんが声を上げ一緒に取り組んで、国は見直しをいったん仕切り直しにすることになりました。

 やっぱり、医療費などお金の問題も、患者さんやご家族にとっては深刻ですよね、社会全体で考えねばならない問題です。

高額療養費制度の限度額認定証ってあるじゃないですか。それを提示すると、患者さんの窓口での負担は限度額まで。それうを超えた分は請求されない、窓口で払わなくてもすむ。

でも、限度額認定証ができる前は、まず患者さんはかかった医療費をいったん全て窓口で支払わなければなりませんでした。それから数カ月たってからも限度額を超えて支払った分が戻ってくる。そういう仕組みでした。

でも、それは高額な医療費がかかる患者さんにとっては辛いですよね。いったん大金を用意しなければならない。戻ってくるけれども、それは数カ月先。その間の生活もありますよね。その限度額認定証の仕組みができたのは、一人のがん患者さんの訴えだったんです。

先に話したがん対策推進協議会の患者委員だった方、北海道の方だったですけれども、がん対策推進協議会の席上で訴えたのです。私も何度も取材させていただいたことがあります。よく「金の切れ目が、命の切れ目」と訴えていました。お金の問題は、がんだけの問題ではありません。患者さんの声が国を動かした。医療政策を決定する場に、患者さんが参画した一つの好事例、成果ではないでしょうか。

その方は、地元の北海道にもがん対策推進条例をつくってほしいと北、署名活動も行い、海道庁や北海道議会にも働きかけました。その願いはその方の存命中にはかなわなかったのですが、その後、北海道がん対策推進条例できました。2012年4月の施行でした。たしか、全国の都道府県で17番目に施行されたのがん対策条例だったと思います。

だからやっぱり、私たちも、患者さんの声を聞いて、届けなきゃいけない。伝えなきゃいけない。そう思うのです。

―――病気の社会的な側面というのは大きいですね。がんが特別、そういう病気なんでしょうか。

がんが特別な病気というわけではありません。病気に優劣はないと思います。

ただし、がんは、罹患する数が多いですよね。年間100万人が新たにがんと診断されている。北海道は年間4万7千人ほどでしょうか。。全国で年間38万人が命を落としている。今、北海道でがんで命を落としている人が年間2万人を超えました。

がんの5年生存率は、がん全体で60%台くらです。

国民の2人に1人はがんにかかり、3人に1人はがんで命を落とす。国民病と言ってもいい。

特別な病気ではありませんが、病気の代表選手かもしれませんね。

がん対策基本法ができて、国も都道府県もがん対策推進計画を立案して対策を進められています。全国にがん診療連携拠点病院やがん相談支援センターが整備さました。

今、国のがん対策推進基本計画は第4期目。第1期5年、第2期5年、第3期6年と進んできました。計画の3つの大きな柱は「がん予防」「がん医療」「がんとの共生」です。共生は「がんと共に生きる」です。第4期計画は「誰一人取り残さないがん対策を推進し、全ての国民ががんの克服を目指す」です。

「がんにならない」「がんを治す」だけでなく、「がんになっても生きていく」「がんが治っても生きていく」ことも重要ながんの対策です。。

 そして、がんの対策は、患者さんやご家族の痛みについて「体の痛み」だけではなく、「心の痛み」やさら「社会的な痛み」までも取り除くことを目指しています。医療だけの対策ではないんですね。

 こうした対策、多くの他の疾患でも共通だと思います。いわばがん対策は、他の疾患対策の一つのモデルではないでしょうか。がんに続いて、例えば、循環器病対策の基本法や計画なども進んでいます。がんの対策って一歩先に進んでいると言うか。

 だから、がんは特別ではない。フロントランナーかもしれません。

 ―――なるほど。

 ただ、がんの対策もまだまだだ、しなければならないことは多くあると思います。そして、例えば、がんの死亡率ひとつを見てみても都道府県格差が大きい。全国をあまねく底上げしていかなければなりません。

<10万例超えた、だけじゃ記事にならない>

先にお話しした、がん患者大集会。これだと思って、取材し発信した。次に何をするか。

まずは、北海道の5大がんの現状と最新の治療などをまとめて記事で連載しようと考えました。そして各回、冒頭は必ずがん患者さんの実体験の話から始めようと、決めました。

北海道新聞でがんの最新治療について報じた連載は、これが初めてだったと思います。反響は大大きかったんです。5大がんの次に、続編として、他の五つのがんの現状と最新治療も連載しました。

 ―――まずは患者さんの話からスタートして、そこから最新の治療の話を。

はい。一人の患者さんの体験から始まり、このがんは現状はこうなっていて、今はこういう最新治療が北海道でも受けることができる、でもまだまだこんな課題がある。そんな流れで書いたと記憶があります。

 ―――そういう記事は、当時、全国的にもあまり多くはなかったんでしょうか。

 いえ、全国紙の方が進んでいましたね。その頃すでに、がんに関するいろんなデータを集めて展開している新聞社もありました。そういう記事を、全国紙に負けないようなとレベルの記事を北海道でも取材し、発信したい、と思いました。東京にいれば情報はいっぱい集まるだろうし、取材対象のドクターもたくさんいるでしょう。うらやましいな、と思いました。

 がんの予防にすごく興味がありました。疫学研究の結果、例えば「こういう人たちはこういう人に比べてがんになるリスクが○倍大きかった」とか。そういう記事も自分で直接研究者に取材して書きたいな、と思いましたね。

 当時は、国立がん研究センターの発表記事など、知識もないし、つてもないわけで、書けませんでした。でも、今ならば、オンラインで取材し、発信することができるようになりました。

コロナでずいぶんと変わったんですよね。

会見や発表もオンラインで参加できる。札幌にいながら参加できる。かつてのように東京まで行かなくても、取材はできるし質疑気応答もできる。そしてし、自分で記事が書ける。もし北海道のデータなり、北海道の特殊な事情などがあれば、それも書き加えることができる。ずいぶんと変わりましたね。

でも、記事が掲載された後は、必ず各紙の記事を読み比べます。共同、時事、朝日、読売・毎日、日経と。同じ会見や発表を聞いて、何を発信したか、どこを強調したか、わかりやすく書けたか、など。。

 ―――ひとつの記事を書くときには、他の会社の記事を見て比べているんですね。

書いた後ですね。そうしないと勉強にならないですね。

例えば、この間、「がん遺伝子パネル検査が保険適用になってから、10万例を超えました」という会見がありましたが、もちろん私も参加して記事を発信しましたが、各社がどういう書き方をするかなあと比べてみました。北海道は読者目線で言うと、「パネル検査は北海道のどこで受けられます」と読者の疑問にきちんと答えなきゃいけない。そこまで書かないとね。

 ―――そうか。そうですよね。

 10万例超えた、だけはね。読後、もやもやが残ってしまう読者もいるのでは。

 ―――どこに行ったらそれを受けられるのか、具体的にどうアクセスできるのか、という話を盛り込まないと。

 そうしないと、北海道新聞の記事としては不親切になってしまいます。

<書いただけでは変わらない>

 がんやがん対策について記事を書きますよね。例えば、がん5年生存率が発表された。「がん全体で○%、部位別で高いのは××がんで△%」という記事を書いた。以前、それを記事にしたら、新聞社に読者から電話がかかってきたんです。

 「どうして、こんな記事を書くんだ」と、怒っているのです。

 ―――それはなんでしょう、統計の事実を書いた記事に怒っている?

 話を聞くと「家族ががんで闘病している」と。がん患者である家族に「生存率の一覧病は見せられない」と。「この記事の部分を切り取って家族に新聞を渡したんだ」と。

考えさせられました。患者さんの家族は、そこまで考えているのか、と。いろいろな読者がいます。そこまで想像できなかった私の未熟さに気づかされました。

とはいえ、最新のがん生存率の記事を書かないわけにはいきません。でも、一つのデータが、ある人にとっては生きる希望となるかもしれませんが、また別の人にとっては病気と向き合う力を奪ってしまうかもしれない。数字の持つ怖さというか難しさを痛感しました。

 データってとっても重要だと思います。私もいっぱい書いています。がんで言えば生存率もはじめ、死亡率も、罹患率も、累積死亡率なども、書いている。先日は北海道と全国の肺がんの超過死亡数についても書きました。これらの数字も、決して誤りは許されません。

 だから、とにかく細心の注意をして、何回も何回も原典の資料と照らし合わせ確かめて書いています。

 そして、このように記事を書いて発信しているいるだけでは、世の中や社会はなかなか動かせない。改善していかない。

 ―――そうですか?

 例えば、北海道はがん死亡率が全国の中でも特に高い地域なんです。毎年、毎年、データが更新されるたびに記事を書いています。「○年は全国で高い方から×番目」などと。いつから始めたんでしょうか。10数年書いています。

 死亡率を改善するためにはどんなことが有効だと考えられるのか。死亡率が高いのはどこに問題がありそうなのか。提言や指摘も発信してきました。事実を伝えるだけでんなく、課題を指摘するだけでなく、解決策のヒントや手がかりも提言・指摘しています。メディアの役割ですから。でも、事実を伝え、提言するまででいいのかな? われわれ新聞記者は、本当はどうしたらいいんだろう、と思う時があるんです。やっぱり何かしなきゃいけない、取り組まなきゃいけない、と思い始めた時期がありました。2015年です。

 北海道新聞が紙面でキャンペーンを展開することになりました。「がんを防ごう」キャンペーン」というのを始めたんですね。北海道はがんの多発地帯でがん死亡率が高い地域、それをオール北海道で改善し、安心して暮らせる北海道を実現するためのキャンペーンです。もちろん私だけの力ではありません。新聞社全体が力を入れて、連載をしたりがんに関わる記事を書いたり、講演会やフォーラムを開いたり。多角的に展開ました。

 当時、北海道のがんの死亡率が全国で2番目に高い。青森がトップで、長野が一番低いんだけど、北海道は何年間もずっと高い。

 がん対策の最終アウトカム(目標)の一つは「死亡率の減少」です。みんなが自分らしい生活、日常生活を送れることもとても大事です。ですが、まずはり死亡率を下げないと。だから、そこを御旗に掲げて、死亡率を下げるためのキャンペーンを展開しました。

 キャンペーンは現在も、紙面で続いています。

 でも、書いているだけで死亡率は下がるのだろうか。

 ―――書いてすらいない人間からすると、二歩くらい先の話をされているような気がします。

 だから、行動にも移さなきゃいけないと思うわけです。仕組みを作らなければ。

  「がんを防ごう」キャンペーンを始めるに当たって、北海道内のがんに携わる医療者・研究者、がん対策に携わる行政の方、患者さんや支援者などを含め、約30人くらいに事前取材として話を聞いてみました。「北海道が、こんなにがん死亡率が悪いっていうこと。ワースト2だということ、知っていますか?」と。知っていたのは数人、片手くらいだったと記憶しています。専門家や当事者すら多くの人が知らないんだから、北海道民はこの事実をほとんど知らないですよね。

 そこで、連載をやりながら、がん対策は医療だけじゃなくて社会全体での取り組みが必要だから、がん対策は行政だけに任せきりにしないで、みんなで連携してて取り組みましょう、と。呼びかけたのです。提案したのです。それは、別に私が考えついた仕組みでは全くなくて、「巨人の肩」を、つまり先人の知恵を借りただけなんです。

がん対策の「六位(ろくみ)一体」を提唱しました。

 「六位」とは6者のことです。患者・家族を中心に、医療提供者、がん対策を進める行政担当者、予算・政策を作る議員、それらを支える民間の企業や団体、そしてこうした取り組みを社会に伝えるメディアです。これら6者がそれぞれ垣根を越えて連携し、がん対策に一丸となって取り組もうと。

 6者でなくてもいいですよ。例えば、子どもたちにがんの正しい知識やいのちの大切さを教えるがん教育も大切ですね、教育関係者にも加わってほしい。がんの研究者とも手をつないで進めていきたい。がんに関わるステークホルダーみんなで取り組みましょうよ、と。。だって、みんながバラバラに活動していては、大きな力にはならないじゃないですか。

 そういう仕組を作ろうということで、当時の北海道医師会の会長とか、北海道がんセンターの院長などが賛同してくれて、彼らが率先してさまざまなところに呼びかけ、多くの人を巻き込んで輪が広がりました。

ここまでくると、もう新聞の力を超えている、社会運動ですよね。

 六位一体で北海道のがん対策を進める。年に1回、患者さんたちが中心になって「北海道がんサミット」を開く。参加者一同、みんなで北海道のがん対策の課題について話し合い、患者さんやご家族の要望をまとめて、北海道知事や北海道議会議長、札幌市長に要望書を患者代表がd手渡し実現を求める、というところまで行いました。

 こうした六位一体の活動は、札幌だけでにとどまらず、室蘭や函館といった北海道内の地域でも組織が生まれ取り組んが始まりました。

 ただ、新型コロナウイルス感染症の登場でね、集まることができなくなりがんサミットも中断せざるを得なくなり、六位一体の取り組みも止まっってしまいました。けれど、室蘭や函館での活動は続いていルと聞いています。

 ―――すごいですね。

 いや、まだ最終アウトカムの北海道の高いがん死亡率は改善されていませんから。私は、メディアの役割の一つは、接着剤だと思うんですよね。

 ―――接着剤。

 人々ををつなぐ、そして、みんなで取り組む。

 北海道がん患者連絡会の話をしましたね。北海道にも、がん患者会はいっぱいあるですが、それぞれの活動からもう一歩踏み出して、みんなで横のネットワークを作れば、大きな声になる。大きな力となり得る。ちょうど六位一体の運動が始まった頃、北海道の患者会同士の緩やかなネットワーク組織ができました。きっかけを作り、報じる。こうして人と人とをつなぐのが、メディアの一つの特性だと思うのです。

連絡会は2017年3月の発足ですから、もうすく10年になりますね。

昨日も、たまたま連絡会の総会がありましてね。いつも取材でお邪魔していますが、そのあと懇親会にも参加させていただいて。それがやっぱり楽しいですよね。いろいろなお話が聞けますから。

 ―――どのくらい集まるんですか?

 連絡会の加盟団体は30近く、このほかに個人会員が30人くらいでしょうか。北海道の中にこんなにがん患者会があるなんて、ヤンデル先生、ご存知でした?

 ―――知りませんでした。

 私もそうだけれど、人は意外と狭いところ、狭い範囲で活動にいます。そして、それぞれの論理の中で動いていますね。

でも、別にそこに閉じこもっている必要は全くない。垣根を越えて外へ出て行って、他者と一緒になって物事や課題に取り組んでいく。すると、時にはぶつかり合うこともあります。でも、対立する必要はないですよね。

 例えば、がんの対策で言えば、医療者にはできないけれど、行政の方ならばできることがあるかもしれない。その逆もしかり。また、医療者だけならば不可能だけれども、他者と連携すれば可能にすることができるかもしれない。

 患者さんの声も、他のステークホルダーの人たちの力を借りれば、いや力を合わせればできるかもしれない。

 みんなで垣根を越えて、できないことを補い合って、助け合って、みんなで北極星なり富士山なり目標を目指せばいいんではないでしょうか。足の引っ張り合いなどはもってのほかですよね。垣根を取っ払えばいいんです。

<話してくれるんですよ>

 ―――これから医療をやっていく人に、「こういう勉強をしておいてほしい」というようなものはありますか。

偉そうなことは言えませんが、実際に病気になった、けがをした、患者さんとお話しなさるのがいいのではないか、と思います。それだけです。

患者さんががんになって、がんと告知されて、何を思い、何に困り、何に悩んだか。直面した困りごとや悩みをどう解決したか、折り合いを付けたか、解決しようとしたが結局解決できなくてどうしたか。

そして、これからどうしたいのか。不安があるのか、希望があるのか。社会に対して、医療に対して、どうしてほしいのか、どうなってほしいのか。

こうしたことを、患者さんに素直に尋ねたらいいのではないでしょうか?

 ―――なるほど。

 例えば、がんの対策でしたら「患者体験調査」とか「遺族調査」という調査があります。そこで、患者さんやご家族がどう思ったか、感じたか、その回答割合までデータゐ出しています。

 当事者に聞くのが、当事者の声に耳を傾けるのが、出発点だと思うんですよね。

例えば、がんの患者さんが、大学の医学部の授業に呼ばれてお話しをされることもあるでしょう。医療者の方もよく「患者さんに学べ」「患者さんから学んだ」と言うじゃないですか。

そのとき、どうか病気や医療や医学のことだけではなくて、その人をまるごと見たらいいと思うのです。患者さんという一人の人間全体を見ることができたら、おのずとそこから想像力と養われ、見えない者が見えてくるのではないでしょうか。

  ―――本当にそうですね。

 医療の取材をして、たくさんの患者さんの話を聞いています。いつも思うのは、感謝の気持ちです。「ありがとう」です。

なぜ、きょう初めて会った私みたいな新聞記者に、こんなにも自分の闘病体験など話をしてくださるのだろうか、と。プライベートなこともいっぱい出てきます。あのとき、こう思った、こう感じた、と。

 もしかしたら新聞記者に話すかどうか、迷いがあったかもしれません。だから、話をしてくれたい、その勇気に、本当に感謝しています。

 自分が逆の取材される立場だったら、がんになってここまで自分の体験を話せるだろか、と思います。でもがんに限らず、多くの患者さんは、唯一無二の体験や思いを話してくれる、語ってださるのです。

  ―――それは聞き方がお上手なんじゃないですか。

いや、そういうことではないと思います。

それぞれの方が、何かを伝えたいんです。こうしてほしいと思う願いがあるからだと思うのです。自分のような体験をしてほしくない、とか。もっと社会をよくしてほしい、医療をよくしてほしい、とか…。そういう何か願いがあるから、話をしていただけるんじゃないでしょうか。

ということは、患者さんたちの話を聞いた私は、その思いや願いを託されているのです。それには応えなきゃいけないんです。  先にお話しをした「私のがんとの生き様を全てを書いてほしい」と願った男性がん患者さんの思いに応えられなかったというのが、忘れてはならない私の大切な原点だ、と思うのです。

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